『シン・ゴジラ』感想(ネタバレについて、ゴジラのいない世界、いっけん描かれていないように見えるもの)

映画『シン・ゴジラ』を2回観た。少なくとももう1度は映画館で観るだろう。
以下、内容に触れる。



ツイッターなどを見ると、多くの人が「ネタバレにならないように」などと書き、「一切の情報を入れずに観てほしい」などと書いている。しかし私はこれがどうもピンとこない。ゴジラにネタバレがあるものだろうか、と思ってしまう。ネタバレとはなんだ、結末か。結末ではないだろう。怪獣映画がバッドエンドで終わるのは難しいだろう(『巨神兵東京に現わる』が珍しい例外なのであって)。
演出に触れることもネタバレであるという指摘には同意する。あるいはたとえば、蒲田に上陸した不明巨大生物についての情報がないまま観られてよかったということも思う。
とはいえ、やっぱり私には「ネタバレ」がよくわからない。よくわからないという自覚があるので、むやみに触れないようによく注意していきたい。
庵野監督の作品だから、面白かったかどうかというコメント自体がネタバレになる」という指摘はなるほどそうかと思った。私は庵野監督にそれほど人生をにぎられていないので、この作品をたんに新作怪獣映画として楽しんでいられるのかもしれない。



私たちがいまいる世界は、「ゴジラという想像上の存在」が存在する世界だ。ゴジラ映画の作品内世界は、「ゴジラというリアルな存在」が存在する世界だ。興味深いなと感じるのは、『シン・ゴジラ』の世界は、「ゴジラというリアルな存在」も「巨大怪獣という想像上の存在」もそれまで存在しなかった世界である点だ。
たとえばウルトラマンの世界では、ウルトラマンも怪獣も既存のものとして存在している。ファーストインパクトはさておき、2回目以降は「また怪獣が出た!」「またウルトラマンが助けに来てくれた!」となるわけである。あるいはニンジャスレイヤーの世界では、忍者は想像上の存在として認識されているが、実は存在しているという設定だ。だからニンジャに出会った一般人は「ニンジャ! ニンジャナンデ!」と叫び失禁する。
シン・ゴジラ』の世界の人々は、出現した巨大不明生物に対して「怪獣だ!」とも「アニメみたいだ!」とも「ハリウッド映画じゃないんだぞ!」とも言わない。あの世界は、私たちがいまいる世界にとてもよく似た世界であるけれど、その点において決定的に虚構世界なのだなと思う。
むやみにメタ的な線を引きたくないという演出上の意図があったのかもしれないが、それこそ庵野監督であればそういうメタなネタを入れてきそうにも思える。制作上の理由はともかく、興味深いと思う。



シン・ゴジラ』は人間ドラマが描かれていない、などの指摘を散見する。そうかもしれない。登場する政治家、官僚、自衛隊などの人々は、みな「仕事をする人」だ。その割りきった作劇こそがこの映画の魅力であるという指摘に、私も同意する。
それはさておき。
人間ドラマや「家族の絆」のようなものが皆無であると思ってしまうのは適切ではない。巨災対のサブリーダー的役割を担う、津田寛治の演じる森厚労省医政局研究開発振興課長について指摘したい。巨災対が組織されたシーンで「便宜上ここは私が仕切るが」と言いながらメンバー紹介を華麗に行う森課長だが、彼の携帯電話の待受画面には妻と子の写真が設定されている。非常時であっても、彼にはプライベートが存在し続けている。巨災対のメンバーの食事シーンが数回出てくるが、森課長は「いただきます」の姿勢をしているし、「ごちそうさまでした」と声に出している。彼には人生がある。彼にすら人生がある、と言い換えてもよい。ゴジラが現れるまでにはそれぞれに長い日常があったことを視聴者に感じさせる、数少ない役回りといえる。
政府が立川に移管されてから最初の巨災対ミーティングにおいて、矢口の挨拶に唇を噛み締めつつ聞き、しかしその後の一瞬の空白をキャンセルすべく「さあ、仕事にかかろう」と声を出すシーン。私はいまあのシーンを思い出して少し泣いている。家族は無事だろうか。連絡を取ることはできただろうか。
矢口のようにも赤坂のようにもなれないけれど、あの森のようになれたらいいな、とすこし思う。