カフェリブロつくば店の閉店によせて

筑波西武が閉店する。つくば市に電車が通る前のある一時期、つくば市の中心は、バスセンターと西武百貨店にあった。つくばエクスプレスが開通し、街の重心は次第に東京へ近づこうとし、並行してあらためてモータリゼーションが起こり、TX終点つくば駅は必ずしも活気にあふれる場所ではなくなっていく。百貨店の時代ももう終わった。筑波西武は閉店する。
筑波西武の5階にはリブロがある。いまから10数年前、大学生だったわたしは、リブロの魅力を知らなかった。本は大学の購買で買えば安かったし、マンガや小説が見たければ友朋堂に行くこともできた。書店の「棚」を気に留めるような学生ではなかった。大学生だった頃、わたしはいまよりもずっとずっと理系だった。人文書といわれるものにほとんど興味はなかった。リブロがブランドとしての力を持っていた時代のことをわたしは知らないし、筑波西武リブロがどんな書店であったのかをよく覚えていない。
おそらく2005年頃だったのではないかと思うのだが、リブロのなかにカフェが併設されるようになった。わたしがつくばへ来たばかりの頃には、まだカフェの営業はなかったような気がする。「あ、こんな場所ができたんだ」と思ったような記憶があるのだ。
カフェリブロは、購入前の本を持ち込むことができた。本を読みながらコーヒーを飲むことができた。それはとても素敵なことのように思えた。平日の昼間、他に客があまりいない時間帯を見計らいつつ、わたしはずいぶん長い時間を、カフェリブロで本を読みながら過ごした。
あの頃のわたしは、新潮クレスト・ブックスが大好きだった。カフェリブロの落ち着いた空間でゆったりと本を読もうと思ったとき、新潮クレスト・ブックスの装丁はとてもその雰囲気に似合っていた。「読む本があって、それを読むための場所がある」という順番ではなく、「その場所で本を読みたくて、そこに相応しい本を探す」という順番。新潮クレスト・ブックスは大学生には決して安くないし、コーヒー1杯で読むことのできる分量も限られていたけれど、たとえば『世界の果てのビートルズ』はカフェリブロのおかげで読むことのできた小説だ。サリンジャーも読んだ。村上春樹訳のレイモンド・カーヴァーも読んだ。

ごく小さい頃、わたしは本が好きな子供だった。よく本を読んだ。中学生の頃も、高校生の頃も、周りと比べればけっこう本を読んでいた。でも、本が生涯の伴侶になりえたのは、あのとき筑波西武のカフェリブロに通っていたからだ。あの、ゆっくりと本を読むことを切実に必要としていた時期があったから、わたしはいまも本を読んでいる。
半公共的な空間で過ごすことの楽しみを教えてくれたのもまた、カフェリブロだった。友人たち数人でファミレスに行ったり、ラーメン屋に行ったり、居酒屋に行ったりすることは知っていた。恋人と小洒落たカフェに行くことも知っていた。けれど、ひとりで時間を過ごすために外へ行くことは、大学生だった頃のわたしにはまだ普通のことではなかった。カフェリブロの空間が好きだったから、わたしはひとりでいることをもっと好きになった。当時はまだSNSは普及していなかったから、ひとりになろうとすれば本当にひとりになることができた。けれどすぐ近くには、感じのいい店員がいて、静かな客が何組かいて、少し離れれば本屋が広がっている。そういう空間が好きだった。こういう空間が自分は好きなのだと知った。
コーヒーと出会った場所もまた、カフェリブロだ。わたしとコーヒーの関係を重要なものにした要因はいくつかあるけれど、そのうちのひとつは、間違いなくあの場所だった。ホイップクリームやアイスクリームやチョコレートソースの掛かったあまいデザートが好きになった理由もまた。
わたしはここでつくられた。
なにもかも変化していく。大切な場所はなくなってしまうし、大切な人はいなくなってしまう。その変化は、わたしがいなくなってしまう日までずっとわたしを襲う。長く生きるということは、大切なものをときどき失い続けるということなのだろう。

世界の果てのビートルズ 新潮クレスト・ブックス

世界の果てのビートルズ 新潮クレスト・ブックス