なぜ炊事は簡単ではないのか――ほんとうに使える料理本のための覚書

たくさんの料理本が売られている。料理名や食材名でウェブ検索すれば、クックパッドをはじめとするたくさんのレシピサイトがヒットする。時短料理、簡単レシピ、意外な組み合わせで手軽にごちそうメニュー。気軽に通える雰囲気の調理教室がショッピングモールに入ることも増えた。たくさんの料理に関する情報が出回っているが、しかしこれらの情報のほとんどは、炊事を簡単にすることはない。なぜか。


ここでわたしは「炊事」ということばを使う。「調理」と区別するためだ。いま問題にしたいのは、家事としての炊事である*1。調理は難しくない。洗濯や掃除と併記されるような家庭生活の一部としての「炊事」が難しいのであり、1回ずつの食事を制作すること=「調理」はけっして難しいものではない。調理はレシピ通りにつくればよいからだ。
信頼できる設計書があり、そこに書かれた素材が過不足なく準備できて、書かれたような技法を実際に再現することができれば、調理を失敗することはない。それでも失敗したのなら、レシピの文章を読み間違えているか、レシピに書かれていない作業を行ってしまったかが原因だろう。つくる料理によってはもちろん、難易度の高い工程はある。単身用アパートのちいさな電気コンロでは、調理にじゅうぶんな火力が得られないこともある。生卵をきれいに割ることにしても、慣れていなくては失敗しがちな作業だ。しかし逆にいえば、レシピが要求する道具と技術に応えることができれば、調理の難しさは解決するのである。



では、なぜ炊事は難しいのか。それは、応えるべき課題が単純ではないからだ。人生を対象にしなくてはならないのが炊事である。簡単に解決できるはずがない。
わたしたちは豊かな人生を送りたいと考えている。豊かな人生の一要素として、豊かな食事がある。わたしたちは美味しいものを食べたいし、健康でありたいし、好きなものを好きなように食べたいし、食事に金を払いすぎたくない。食事についての希望はいろいろな方向性があり、互いに相容れない。珍しい高級食材もたまには食べてみたいし、慣れ親しんだ簡素なものも食べたい。いろいろなものを食べたいのだ。
また一方で、わたしたちの生活はけっして単一ではなく、単調でもない。ひとり暮らしの家庭も3世代同居の家庭もある。いまはひとり暮らしであっても、いずれ家族と同居することになるかもしれないし、その後またひとり暮らしに戻ることもあるだろう。人生のすべての期間がおなじ状況であり続けることはない。残業のすくない規則的な仕事に就いている人もいるし、いつも帰りが遅い人もいる。急にとても忙しくなることもあるし、病気で寝込むような時期もあるだろう。隣の家とは家庭事情が違うのだからまったく同じ食事をすることはできないし、去年の自分とは生きている状況が違うのだからまったく同じ食事をすることはできない。
いろいろなものを食べたいという嗜好。それぞれ別個の人生。変わりうる生活環境。炊事は、これらの要求に応えなくてはならない。そのために必要なのは作業環境の充実でもなく、調理技術の向上でもない。思考の訓練だ。


炊事を簡単にする方法はある。選択しないという選択をすることだ。
同じものを食べ続けることにすれば、日々の献立に悩む必要はなくなる。わたしの朝食はいつもシリアルとインスタントスープとコーヒーだ。朝食のパターンが決まっているひとは多いだろう。いつもトースト、いつも御飯と味噌汁と納豆、いつもコンビニのサンドイッチ。それでも構わない。朝は時間がなかったり頭が回っていなかったりするから、いろいろ決めておいたほうが便利だ。変化しないことは問題にはならない。
ところがこれが夕食や弁当などになると、なぜか献立が変化していくのが当然かのように捉えられる。これは現代人に掛けられた呪いであり、無意味な思い込みだと考えたほうがいい。
わたしたちは気に入ったマンガを何十回も読み返すことをするし、好きな楽曲を何十回もリピート再生するし、ディズニーランドに何十回も遊びに行く。反復は必ずしも惰性ではない。同じ献立を繰り返し食べることに罪悪感をもつ必要はない。
呪いをひとつ解いたところで、炊事のための思考について考えていきたい。




なんだか過剰に堅苦しい文体になってしまった。序文かあとがきといった感じで、本文はもっとライトに書きたい。扱いたい話題を箇条書きにしておく。

  • 宵越しの食材は持たない
    • 保存方法を覚えるよりも、使い切るほうが簡単
  • それは手抜きではない
    • コンビニ食材や冷凍食品をどう使っていくか
  • 献立を考える手順
    • 食材駆動型、献立駆動型、そして洗い物駆動型



このブログではこれまでに何度も炊事について書いてきた。
まとめたものがこちら。
「適当な暮らし」のために - うしとみ
いまのところ最も重要なのはこれ。
まず、ご飯より始めよ(生き延びるための自炊入門) - うしとみ

*1:辞書的には炊事と調理は大きな違いはない。この文章では、「炊事」=「家事としての炊事」として扱う。

夢眠ネムについて、あるいは誰かと夢を見ること

「夢眠ネム」について語らなくてはならない。

夢眠ネム|VOCALOID(TM)4

夢眠ネムとはなにか。夢眠ねむの声をもとにつくられたVOCALOIDライブラリである。
夢眠ねむとは誰か。アイドルグループ「でんぱ組.inc」のメンバーである。いまわたしがいちばん応援しているアーティストのひとりだ。
わたしは夢眠ねむが好きだ。はっきり言わないと伝わらないこともあるので、書いておこう。



初音ミク」が登場したときの衝撃を覚えている。音声合成の技術の粋としてではなく、愛されるキャラクターとして登場し受容されていったことの、あの驚きと感動をよく覚えている。
VOCALOIDには数多くのライブラリが発表されており、十分な知名度を持った人物が声を提供した製品もそれほど珍しくないようだ。GACKTや「SEKAI NO OWARI」のFukaseなどが有名所だろうか。


正直なところ、わたしにはVOCALOIDごとの音色がよく区別できない。たくさんのライブラリの様々な歌声すべてが1つのおなじ楽器として聞こえている。聴き分けられる人とは、耳や脳の機能が微妙に違うのだろうと思う。たとえるなら、NHK交響楽団ベルリン・フィルハーモニーの違いを聴き分けることが普通の人には難しいようなもの、かもしれない。


だから、夢眠ネムが発表されたときも、コンピレーションアルバムの製作が発表されたときも、わたしはいまいち乗り切れなかった。あまり楽しめないんじゃないかと思っていた。とはいえ、推している人がVOCALOIDになることなど、人生にそうそう起こることではない。ともかく買うしかない。ここで金を使うのがオタクのすすむ道だ。
ついでにMIDIキーボードも安いものを買った。これを機にずっと気になっていたDTMをやってみようかと考えたものの、いまのところ仕事に忙殺されており、とてもそれどころではない。余生に期待したい。



夢眠ネムのコンピレーションアルバムの話をするまえに、夢眠ねむについて確認しておこう。
アイドルにはいくつかのタグが設定される。夢眠ねむのテーマカラーは「ミントグリーン」で、キャッチフレーズは「永遠の魔法少女未満」。彼女がプロデュースしたキャラクター「たぬきゅん」も一部で大ブレイク中だ。でんぱ組.incとしての楽曲においては、その名にちなんで「夢」や「眠い」という歌詞を含むパートをよく担当する。


夢眠ねむとはなにか。それは、「夢眠ねむの中の人」のセルフプロデュースによって生み出された作品である。アイドルであり、アイドルというメディアアートである。このことは「夢眠ねむ」本人が幾度となく語っている*1


アイドル産業にはそもそも歪みがある。若い生身の人間たちが、大勢の他人の感情を動かすために歌い踊るのだから、歪みがあるのは間違いないだろう。
人気のあるアイドルたちはみなどこかで、その歪みを補正したり吸収したりしている。夢眠ねむの補正は「作品」という枠組みによって行われているようにわたしは思う。



VOCALOID 夢眠ネム』の話をしよう。
このアルバムの楽曲は、すべて夢眠ネムの歌唱による。ただし、最後の曲だけは夢眠ねむ本人の歌唱がメインになっている。全曲を短くつなげたPVがYoutubeで公開されている。

初めて視聴したとき、わたしは泣いた。アイドルを応援していると、ときどきとても幸せなことが起きる。


アルバム『VOCALOID 夢眠ネム』に収録された楽曲のほとんどすべては、じつは、誰が歌っても構わない。VOCALOIDの聴き分けが苦手なわたしにとっては、これらの曲を初音ミクが歌っていても違いを感じないかもしれない。夢眠ねむ本人がカバーしたものもいいだろう。ただし、最後の楽曲だけは別だ。
その曲のタイトルは『あるいは夢眠ねむという概念へのサクシード』。制作はMOSAIC.WAV。歌詞を引用する。

たとえわたしが消えてなくなっても/夢眠ねむは生き続ける/ただ、悩み貫いたこの思いが/忘れ去られることがこわいの?/だからいま・・・
夢眠ねむは概念になる
わたしの名前をあげる


わたしたちは身体を持っている。身体に縛られている以上、ひとつの場所にしかいることはできない。同時に複数の場所に遍在することはできない。それが生身の人間の限界だ。しかし。ふたたび『サクシード』から引用する。

癒されるってどういうこと?/心をほどいてくれる誰かがいること/それには技術が必要?/ううん、いるだけでいいの/それじゃあわたしは・・・
あなたのそばにいたい


生身の身体は、いずれ衰え損なわれる。けれど、VOCALOIDに吹き込まれた声は、永遠である。孤独な身体を離れて、現在と未来のあらゆる場所に存在できる。
夢眠ねむは概念になる。概念は遍在する。遍在するならば、いつでも必要な人のそばにいることができる。


「概念になる」ときいてすぐに思い出すのは、『魔法少女まどか☆マギカ』のことだ。この話を始めると絶対に畳めなくなるのでやめておくが、ところで、「永遠の魔法少女未満」という夢眠ねむのキャッチフレーズはどういう意味なのだろうか。
「未満」ということは、つまり魔法少女ではない。魔法少女ではないということは、つまり普通の少女である。「ずっと普通の女の子」だと言うのだ。しかし。

VOCALOID 夢眠ネム

VOCALOID 夢眠ネム

彼女はいま、ひとつの永遠とともにある。
変わらない声を持ち、「わたしの名前をあげ」たキャラクターがいる。夢眠ねむのためにではなく、夢眠ネムのために、いくつもの歌が生まれた。夢眠ネムは歌い続ける。


『サクシード』は、夢眠ネムの音声を(おそらくまったく)調整していない。無調整のVOCALOIDと、オリジナルの人間が出会い直し、永遠になることを夢みる。このことにより「悲しいループ」は解消され、幸福なループとして、わたしたちはアルバムの1曲目『コズミックメロンソーダマジックラブ』の世界へ回帰する。夢眠ネムは、歌い続ける。


■■
アイドル産業が消費者を惹きつける魅力のひとつは、アイドルたち自身が未熟であることだ。努力し挑戦する物語を、わたしたちは消費してもいる。その欲求はけっして褒められたものではないとは思う。しかし、それでもたしかに、他の誰かといっしょに夢を見ることは、素敵なことだとも思うのだ。
わたしたちはみな「魔法少女未満」だ。きっと特別にはなれないわたしたちだから、特別な夢を見せてくれる誰かを憧れ続けている。

*1:「私も大学の専攻がメディアミックスだったんですが、自分に使えるメディアがわからなかったので、メディアに載る側のアイドル「夢眠ねむ」を卒業制作として提出したんです。だから、いまだに卒業制作をやり続けているとも言えるけど。(笑)」(『小説BOC 6』中央公論新社、2017年、B12頁)

カフェリブロつくば店の閉店によせて

筑波西武が閉店する。つくば市に電車が通る前のある一時期、つくば市の中心は、バスセンターと西武百貨店にあった。つくばエクスプレスが開通し、街の重心は次第に東京へ近づこうとし、並行してあらためてモータリゼーションが起こり、TX終点つくば駅は必ずしも活気にあふれる場所ではなくなっていく。百貨店の時代ももう終わった。筑波西武は閉店する。
筑波西武の5階にはリブロがある。いまから10数年前、大学生だったわたしは、リブロの魅力を知らなかった。本は大学の購買で買えば安かったし、マンガや小説が見たければ友朋堂に行くこともできた。書店の「棚」を気に留めるような学生ではなかった。大学生だった頃、わたしはいまよりもずっとずっと理系だった。人文書といわれるものにほとんど興味はなかった。リブロがブランドとしての力を持っていた時代のことをわたしは知らないし、筑波西武リブロがどんな書店であったのかをよく覚えていない。
おそらく2005年頃だったのではないかと思うのだが、リブロのなかにカフェが併設されるようになった。わたしがつくばへ来たばかりの頃には、まだカフェの営業はなかったような気がする。「あ、こんな場所ができたんだ」と思ったような記憶があるのだ。
カフェリブロは、購入前の本を持ち込むことができた。本を読みながらコーヒーを飲むことができた。それはとても素敵なことのように思えた。平日の昼間、他に客があまりいない時間帯を見計らいつつ、わたしはずいぶん長い時間を、カフェリブロで本を読みながら過ごした。
あの頃のわたしは、新潮クレスト・ブックスが大好きだった。カフェリブロの落ち着いた空間でゆったりと本を読もうと思ったとき、新潮クレスト・ブックスの装丁はとてもその雰囲気に似合っていた。「読む本があって、それを読むための場所がある」という順番ではなく、「その場所で本を読みたくて、そこに相応しい本を探す」という順番。新潮クレスト・ブックスは大学生には決して安くないし、コーヒー1杯で読むことのできる分量も限られていたけれど、たとえば『世界の果てのビートルズ』はカフェリブロのおかげで読むことのできた小説だ。サリンジャーも読んだ。村上春樹訳のレイモンド・カーヴァーも読んだ。

ごく小さい頃、わたしは本が好きな子供だった。よく本を読んだ。中学生の頃も、高校生の頃も、周りと比べればけっこう本を読んでいた。でも、本が生涯の伴侶になりえたのは、あのとき筑波西武のカフェリブロに通っていたからだ。あの、ゆっくりと本を読むことを切実に必要としていた時期があったから、わたしはいまも本を読んでいる。
半公共的な空間で過ごすことの楽しみを教えてくれたのもまた、カフェリブロだった。友人たち数人でファミレスに行ったり、ラーメン屋に行ったり、居酒屋に行ったりすることは知っていた。恋人と小洒落たカフェに行くことも知っていた。けれど、ひとりで時間を過ごすために外へ行くことは、大学生だった頃のわたしにはまだ普通のことではなかった。カフェリブロの空間が好きだったから、わたしはひとりでいることをもっと好きになった。当時はまだSNSは普及していなかったから、ひとりになろうとすれば本当にひとりになることができた。けれどすぐ近くには、感じのいい店員がいて、静かな客が何組かいて、少し離れれば本屋が広がっている。そういう空間が好きだった。こういう空間が自分は好きなのだと知った。
コーヒーと出会った場所もまた、カフェリブロだ。わたしとコーヒーの関係を重要なものにした要因はいくつかあるけれど、そのうちのひとつは、間違いなくあの場所だった。ホイップクリームやアイスクリームやチョコレートソースの掛かったあまいデザートが好きになった理由もまた。
わたしはここでつくられた。
なにもかも変化していく。大切な場所はなくなってしまうし、大切な人はいなくなってしまう。その変化は、わたしがいなくなってしまう日までずっとわたしを襲う。長く生きるということは、大切なものをときどき失い続けるということなのだろう。

世界の果てのビートルズ 新潮クレスト・ブックス

世界の果てのビートルズ 新潮クレスト・ブックス

かつて『ジーンダイバー』というアニメがあった

1993年に小学生だった私にとって、NHK教育で「天才てれびくん」放送開始されたことは特別なできごとだった。テレビのなかで、自分と同世代の子どもたちがたくさんいて、奇抜な衣装を身にまとい、不思議なCG合成といっしょに、なにやら面白そうなことをしている。「天才てれびくん」は小学生の私にとっての憧れの象徴であった。

天才てれびくんの虚構構造

放送開始とともに始まった番組内コーナーに『恐竜惑星』があり、その翌年には『ジーンダイバー』があった。実写とアニメを組み合わせた構成はとても斬新で、まさにバーチャルリアリティを叩きつけられているような視聴体験だった。なにしろ、直前のコーナーで別の子役たちとともにワイワイ喋っていたうちの一人が、『恐竜惑星』が始まるとアニメーションになって恐竜と追いかけっこしているのだ。登場人物は『恐竜惑星』というコーナーのなかで、アニメーションと実写を行き来する。
天才てれびくん」という番組全体が、クロマキー合成を基調にした虚構世界を舞台にしている。その虚構世界の中に「『恐竜惑星』実写パート」があり、そして『恐竜惑星』世界の中での現実として「バーチャル空間=アニメパート」がある。実写パートにいる子役にとって、アニメパートは同一世界線でのできごとである。また「天才てれびくん」内において、(少なくとも番組開始当時は)(私の記憶の限りでは)「恐竜惑星」という物語は同一世界線でのできごとである。さらに、「天才てれびくん」内には、視聴者がリアルタイムで参加する電話ゲームのコーナーもあった。こうして仕組まれた虚構の多重化は、「恐竜惑星」の世界がほんとうに現実と地続きになっているかのような印象を与えた。
もちろん小学生の私だって、ほかのテレビドラマを観たことはあったはずだし、大河ドラマに出ていた俳優がたとえばクイズ番組に出ているのを観たこともあっただろうけれど、それとはまた少し話が違う。どこまでが虚構でどこまでが現実なのか、そんなことを小学生の私は言語化はできなかっただろうけれど、強い衝撃を受けていたに違いない。

ジーンダイバー』

ジーンダイバー』は名作である。詳しいあらすじなどは、Wikipediaの記事を参照されたい。
簡単かつ大胆にネタバレを言えば、仮想タイムマシンが存在し、歴史改変が可能になってしまった世界で、歴史を変えようとする勢力と歴史が変わらないようにしたい勢力が争う、というのが前半のお話。後半では、じつは地球の歴史には外部からの介入者がいて、生命の進化は介入者によって仕組まれたものだったことが判明する。しかもその介入者にとっては人類は失敗作であったため、遡って生命進化をキャンセルして無機物が知性体となるように歴史改変を行おうとしている……というのが終盤。なかなかハードなSFだ。
最後の敵(進化への介入者)、「スネーカー」と主人公の最終話の対話は、かんたんな善悪の対決ではない。絶対にわかりあうことのできない異なる起源をもつ知性どうしが、自身の願望のために他者を排除することを選ぶのか、互いを尊重して共存する道を選ぶのか。我が主人公は、自らの体内に入りこみ自己増殖を続けるマイクロマシンを受け入れるかわりに、全宇宙の有機知性体が自我を持ち続けることの許しを得る。絶対的な死を受け入れることにも似た、しかしそれ以上に巨大な決断。思い出していただきたいが、『ジーンダイバー』は小学生向けのテレビ番組のなかの1コーナーである。
ジーンダイバー』の主人公である「唯」は、その第一話において傷ついた動物を助け、手当をする。このとき動物に噛まれた傷がきっかけとなり、すべての物語が駆動していく。最終話近くで唯は、スネーカーによる精神攻撃を受ける(「エヴァ」を連想するが、そのテレビ放送までにはまだ2年ほどある)。極限状態の幻影のなかで、唯は自己犠牲をともなって小動物を助ける。この行動がスネーカーを困惑させ、反撃へとつながっていく。我が主人公は一貫して、やさしさ・思いやりによって駆動されていて、その判断が最終的に宇宙を救う。一貫性のある登場人物が描かれることで物語の説得力は増し、またジュブナイルとしての要請にも応えている。
名作である。

まどマギを知るものとして

私たちは、『魔法少女まどか☆マギカ』を知っている。人類の歴史には進化への介入者がいて、人類とそれとの関係は、家畜と人類の関係のようなものであった。最後はひとりの少女の自己犠牲的な選択によって、宇宙が書き換えられる。こうしてみると、よく似ているように思える。親しみやすい絵柄をつかってハードな物語を描いている点も、またよく似ている。
せっかく2017年に生きているのだから、この2つの物語を並べたり重ねたりしながら考えてみたいところだ。現在の私の手には負えないが、時期を待ちたい。


ジーンダイバー』は有名な作品ではない。しかし、歴史に残るべき作品だろう。残念ながら作品へのアクセス難易度は高い。文章を残すことで少しでも貢献できればと思う。

ジーンダイバー DVD-BOX

ジーンダイバー DVD-BOX

「適当な暮らし」のために

暮らしや生活に関する話が気になっている。「丁寧な暮らし」、「シンプルな暮らし」、「断捨離」、「ミニマリスト」……。
そういった書籍などを見つけるたびになんとなくチェックしているのだが、どうもピンとこない。わたしがよいと思う概念とはどうもズレているのだ。
わたしが送りたい生活は、もっと気楽なものだ。あまり難しいことは考えない。一生懸命にはならない。けれど、何も考えていないわけではない。ちょうどいい暮らし。「適当な」暮らしをしたい。そういう本を読みたい。読みたいけれど見つからないので、自分で書くしかないのかなあと思い始めている。
このブログでは、数年前から何度か、家事についての文章を書いている。ひとまず、それらをまとめて目次のようにしておきたい。ここへさらに事例を積み重ねたり、論を立ち上げたりしていければと思う。


まず、ご飯より始めよ(生き延びるための自炊入門) - うしとみ
自炊スターターキット、あるいは一人暮らしで買わなくてもいいものリスト - うしとみ
「ひとり暮らしの炊事」の導入のために書いたもの。食事は、生活のなかでとても大きな要素だ。



一発芸の料理ができても、家事ができるとは言えない - うしとみ
学校では教えてくれない味噌汁の作り方 - うしとみ
生活についてよく考え始めたころの文章。



「きょうの料理ビギナーズ」が素晴らしい3つの理由 - うしとみ
もっと手前から部屋の片付けを考える『片づけの解剖図鑑』 - うしとみ
アイドルとしての栗原はるみ、思想としての家事 - うしとみ
書評など。どの分野にも、よい本はいくつもある。



これから書きたいこと。個別的指南をたくさん積み重ねていきたい。
・(適当な暮らしのために)買いたい食材、買ってはいけない食材。
・習慣化の考え方
・祭りと日々
・レベルの上げ方、殴り方

2万円のエアロバイクを買うというひとつの答え

思い立って、エアロバイクを買った。

運動をする必要があることは理解し続けてきたつもりだし、運動をしようという意志もいつも持ち続けてきた。しかし、実践することはなかなか難しい。
どのような運動をするべきなのか。ランニングはダメだと思った。ランニングをしていた時期もあった。あのころ住んでいた家の近所は、わりと交通量が少なくて走りやすかったなと思い出す。走るためには着替えなくてはならないし、走ったあとも着替えなくてはならない。走る前後にはストレッチなども必要だろう。たしかに外を走るのは気持ちがいいものだけど、けっきょく私は「走るのが好き!」とは思わなかったわけだ。
水泳をしたいと思った。泳ぐのは好きだ。着替えやシャワーの問題が少ないのもいい。水泳がしたい。しかしプールが近くにない。徒歩5分、せめて自転車で10分くらいの距離にプールがあれば、しかも料金の安い市民プールがあれば。そのために引っ越すわけにもいかない。
筋トレはどうしても続かない。筋トレは毎日やらないほうがいい、みたいなことを言われるから苦手だ。毎日やらないほうがいい? ではいつやったらよいのか。1日ごとか。1日ごとでは曜日がズレていくから覚えにくい。習慣になりにくいじゃないか。それから、正しいフォームでやらないと効果がない、みたいなことを言われるのも苦手だ。正しいフォーム? それは誰に教えてもらえばよいのか。筋トレを自分だけで続けていくことも難しい。


そういうわけで、エアロバイクを買った。

とても気軽に運動ができる。
準備体操をする必要もない(本当はするべきなのかもしれないが、ママチャリに乗って買い物にいくときに準備体操をするだろうか?)。
着替える必要もない(自宅なのだから、外着でも寝間着でもべつに構わない)。
交通事故を気にかける必要もないし、正しいフォームで漕ぐことを考える必要もない。なんとなく乗り、なんとなく漕ぐ。
さらに素晴らしいことには、エアロバイクを漕ぎながらテレビを見たり本を読んだりすることさえできる(音楽を聞きながら外を走ることは、素敵だけれど危険ではないのかといつも思う)。
本を読むことさえできる!


今回私が買ったエアロバイクは、背もたれがついていて、サイドハンドルもついている。とても楽に乗ることができる。


そんなふうに気楽にエアロバイクに乗ることによって、本当にじゅうぶんな運動を実現できているのかという疑念があるかもしれない。
重要なのは、心拍数だ。
心拍数をじゅうぶんに上げ、それを一定時間維持することができれば、スタイルはどのようであっても構わないと考える。

脳を鍛えるには運動しかない!  最新科学でわかった脳細胞の増やし方

脳を鍛えるには運動しかない! 最新科学でわかった脳細胞の増やし方

  • 作者: ジョン J.レイティ,エリックヘイガーマン,John J. Ratey,Eric Hagerman,野中香方子
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2009/03/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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『脳を鍛えるには運動しかない!』という力強く胡散臭いタイトルの書籍を完全に鵜呑みにしようとは思わないとしても、それでもこの本は支えになる。
第一章で紹介されるネーパーヴィル高校での体育の授業のエピソードは、体育の授業を強く忌み嫌いつづけてきた私にとって、あまりにも魅力的なものだった。私もネーパーヴィルで思春期をやり直すことができたら。本書では繰り返し、身体に負荷を掛けることが、いかに心を(脳を)良い方向へと変化させるのかを説明する。目からウロコが落ちる思いがしたのは、ダンスダンスレボリューションをプレイするエピソードだった。
そうか、そういうことでもいいのか。
ランニングマシンとかエアロバイクとかやるくらいなら外を走ったほうがいい、そう考えていた時期が私にもあった。でも、けっきょく私は「外を走ることの喜び」は別に感じていなかったのであり、有酸素運動をして心拍数を上げたいだけなのだ。それならマシンでよいのではないか。
今回私が買ったエアロバイクは、2万円以下だ。スポーツジムに通おうとしたら、すぐに2万円くらい出ていってしまう。外に行くにはシューズもウエアも揃えなくてはならない。エアロバイクなら裸足で乗ってもいい(本当はよくない)。


運動はしたほうがいい。したい。でも、運動を続けている自分を想像できない。私はずっとそうだった。これからもそうだろうか。
エアロバイクならば、なんとなく乗り続けるような気がしている。朝、出かける前に。帰宅後に。寝付けない夜に。なにも、毎日欠かさず30km走ることを強いられているわけではない。
できるんじゃないだろうか。まだ買ってから数日だけど、けっこう楽しい気がしているのだ。

『シン・ゴジラ』感想(ネタバレについて、ゴジラのいない世界、いっけん描かれていないように見えるもの)

映画『シン・ゴジラ』を2回観た。少なくとももう1度は映画館で観るだろう。
以下、内容に触れる。



ツイッターなどを見ると、多くの人が「ネタバレにならないように」などと書き、「一切の情報を入れずに観てほしい」などと書いている。しかし私はこれがどうもピンとこない。ゴジラにネタバレがあるものだろうか、と思ってしまう。ネタバレとはなんだ、結末か。結末ではないだろう。怪獣映画がバッドエンドで終わるのは難しいだろう(『巨神兵東京に現わる』が珍しい例外なのであって)。
演出に触れることもネタバレであるという指摘には同意する。あるいはたとえば、蒲田に上陸した不明巨大生物についての情報がないまま観られてよかったということも思う。
とはいえ、やっぱり私には「ネタバレ」がよくわからない。よくわからないという自覚があるので、むやみに触れないようによく注意していきたい。
庵野監督の作品だから、面白かったかどうかというコメント自体がネタバレになる」という指摘はなるほどそうかと思った。私は庵野監督にそれほど人生をにぎられていないので、この作品をたんに新作怪獣映画として楽しんでいられるのかもしれない。



私たちがいまいる世界は、「ゴジラという想像上の存在」が存在する世界だ。ゴジラ映画の作品内世界は、「ゴジラというリアルな存在」が存在する世界だ。興味深いなと感じるのは、『シン・ゴジラ』の世界は、「ゴジラというリアルな存在」も「巨大怪獣という想像上の存在」もそれまで存在しなかった世界である点だ。
たとえばウルトラマンの世界では、ウルトラマンも怪獣も既存のものとして存在している。ファーストインパクトはさておき、2回目以降は「また怪獣が出た!」「またウルトラマンが助けに来てくれた!」となるわけである。あるいはニンジャスレイヤーの世界では、忍者は想像上の存在として認識されているが、実は存在しているという設定だ。だからニンジャに出会った一般人は「ニンジャ! ニンジャナンデ!」と叫び失禁する。
シン・ゴジラ』の世界の人々は、出現した巨大不明生物に対して「怪獣だ!」とも「アニメみたいだ!」とも「ハリウッド映画じゃないんだぞ!」とも言わない。あの世界は、私たちがいまいる世界にとてもよく似た世界であるけれど、その点において決定的に虚構世界なのだなと思う。
むやみにメタ的な線を引きたくないという演出上の意図があったのかもしれないが、それこそ庵野監督であればそういうメタなネタを入れてきそうにも思える。制作上の理由はともかく、興味深いと思う。



シン・ゴジラ』は人間ドラマが描かれていない、などの指摘を散見する。そうかもしれない。登場する政治家、官僚、自衛隊などの人々は、みな「仕事をする人」だ。その割りきった作劇こそがこの映画の魅力であるという指摘に、私も同意する。
それはさておき。
人間ドラマや「家族の絆」のようなものが皆無であると思ってしまうのは適切ではない。巨災対のサブリーダー的役割を担う、津田寛治の演じる森厚労省医政局研究開発振興課長について指摘したい。巨災対が組織されたシーンで「便宜上ここは私が仕切るが」と言いながらメンバー紹介を華麗に行う森課長だが、彼の携帯電話の待受画面には妻と子の写真が設定されている。非常時であっても、彼にはプライベートが存在し続けている。巨災対のメンバーの食事シーンが数回出てくるが、森課長は「いただきます」の姿勢をしているし、「ごちそうさまでした」と声に出している。彼には人生がある。彼にすら人生がある、と言い換えてもよい。ゴジラが現れるまでにはそれぞれに長い日常があったことを視聴者に感じさせる、数少ない役回りといえる。
政府が立川に移管されてから最初の巨災対ミーティングにおいて、矢口の挨拶に唇を噛み締めつつ聞き、しかしその後の一瞬の空白をキャンセルすべく「さあ、仕事にかかろう」と声を出すシーン。私はいまあのシーンを思い出して少し泣いている。家族は無事だろうか。連絡を取ることはできただろうか。
矢口のようにも赤坂のようにもなれないけれど、あの森のようになれたらいいな、とすこし思う。