感動を忘れていく贅沢

自分の心に響くもの、たとえば、刻一刻と色の変わっていく夕焼け空を流れる雲であったり、道ですれ違った誰かが口にした何気ない言葉であったり、散歩しているときにふと口をついた新しいメロディであったり、明け方の眠りの中で見た複雑で不思議に感動的なストーリィの夢であったり、そういうものを記録するために、カメラがあり、レコーダがあり、言葉があるのだけれど、それを敢えて記録しないでそのときだけの楽しみとして消費してしまい、時間の流れにその感動を忘れさせていくのが好きだ。

記録して残ったものもたしかに美しいし、素晴らしい。でも、それは、その瞬間に感じた美しさや素晴らしさとは別のものだ。記録に触れることで新しい感動が起こることもあるけれど、私はその瞬間に感じた美しさや素晴らしさが好きだ。おそらく、素晴らしいと感じた対象ではなく、そのとき素晴らしいと感じた感覚にこそ価値があるのだろう。

「さっき虹が出てて綺麗だったから携帯で撮ったよ」「この文章、感動したから読んでみて」。言葉も、音楽も、映像も、簡単にたくさんの人たちと共有することが出来る。簡単に出来るからこそ、なにかを自分だけのものにしてしまうことに幸せを感じるのかもしれない。