姜泰煥×高橋悠治×田中泯×斉藤徹(ブレス・パッセージ2008)

カピオホールでの公演を観てきました。アルトサックス、ピアノ、ダンス、コントラバスの4人による「即興演奏」です。kuri_saxo氏もレビューを書いているので、ぜひ読んでみてください。
この公演、一体なにをするのか当日まで分かりませんでした。演者の4名のうち、特にピアノの高橋悠治とダンスの田中泯は名前もよく知られていて、ということは他の2人もすごいのだろう、なにが行われるのかよく分からないけれどすごいのだろう、という気持ちで会場に入り、パンフレットを見て驚きました。

開演 7:00

第一部 〜即興〜

休憩 15分

第二部 〜即興〜

終演 8:45予定

これしか書いてありませんでした。このパンフレットを見た瞬間に「これはすごいものを観に来てしまったぞ」という期待が溢れたわけなんですが、とにかくこの「何が起きるか分からない」感じはすごい。
舞台上には、上手(かみて)にコントラバス、下手にピアノ、中央の少し下がったところに学校の朝礼台のような台が配置されています。
開演時間になって客席が落ち着くと、サックス奏者がおもむろに舞台に登場し、中央の台にあぐらをかいて座りました。長い吹き伸ばしが始まります。循環呼吸を使って、途切れることなく「音」が鳴る。その音は西洋的な「音楽」の音からは離れてしまった場所で、音程や音量が微妙に変化していきます。
しばらくするとベース奏者が登場します。このあたりからは私は声を出して笑うのをこらえながら聴いていたのですが、まあ面白いんだ。あまりにも自由。「サックスの音楽にベースが合わせる」のが「常識」的なルールでしょうが、自由。奏法もパーカッション的だったりして、こちらも西洋的な音楽ではまったくない。しかし単なる混沌ではないし、まったく無関係に楽器を鳴らしているわけでもない。奏者はお互いに存在を意識しているし、そこには確かに時間の流れとそれに沿った物語がある。
さてそこへピアニストが登場。最初に音を出すのはピアノではなく、椅子。椅子をガタガタさせて、床に打ちつける「音楽」。私はといえば、2階席から前のめりになって笑いをこらえていました。おもしれー!
いつからそこにいたのか、田中泯が舞台の奥の方に立っています。最初は「踊る」のではなく、「ゆっくりと前進する」という感じ。音楽に合わせるわけでもなく、舞台をゆっくりと移動している。しかしそこはもちろん「舞台」であり、演者としてそこにいる。
こんな具合に登場した4人が、盛り上がったり静かになったりしながら舞台を繰り広げるわけです。


さて、舞台の感想は、もうとにかく「おもしろかった!」に尽きます。で、そこで終わってもよいのでしょうが、感じたことについて少し考察もしてみたい。
やはり考えるのは、「どこまでが音楽なのか」ということ。
あのサックスは、「音楽」であることを放棄していたようでした。あれは音楽ではなく、まさに「ブレス・パッセージ」、「呼吸の流れ」であって、つまりそれは楽譜や言葉に写し取ることの出来るものではなく、記号化できない「いま」であり「意思」であろうと思います。
コントラバスはといえば、まだ少し音楽を残しているようにみえたけれど、あれは「音楽」ではなく「音の連なり」であったのだろうと思います。途中、楽器に風鈴のような打楽器などを取り付けて偶然に鳴る音を取り入れたことは、音に対する意識は強くあったということでしょう。演奏中に客席ではなくダンサや他の演奏者の方を向いて弾いていたのは、その即興の生み出す「空間」に対して存在しようという意思の強さの現われだったのだと思います。それを「音楽」への思い出とみるのか、「場」に対する意識の強さとみるのかでまた話は変わりますが、私は後者であるだろうと思います。
ピアノだけが明確に「音楽」の成分を残していて、3者のこのアンバランスさが場の緊張感を生み出していたのだろうと思います。
「どこまでが音楽なのか」という問いは、ある程度の大きさのグレーゾーンを経て、「ここからはもう音楽じゃなくていいんじゃないかな」という場所があると私は思います。今回の舞台では、その「ここからはもう音楽じゃなくていい」世界がときどき顔をのぞかせていたのだと思います。それが「おもしろい!」につながるのだと。


ひとつ書き留めておきたいことは、第二部も終わりが近い、アルトサックスが退場したあとの場面で、私が膝を打ってリズムを取りながら聴くのを我慢できなかったことです。あのときは、自分もこの「場」に参加しているのだという感覚がありました。そしてあの「リズム」は、「音楽」ではない、つまり音楽的な意味での手拍子ではなく、鼓動に近いもの、衝動に近いものだったのだろうと思います。