読書感想文を書こうと思ったんだ

初夢がなぜ1月1日から2日に掛けて見た夢なのかといえば、大晦日の晩は眠らなかったからである。「二年参り」という言葉があるように、大晦日の晩にはお参りに行き、除夜の鐘を聞き、そのまま年が変わるのをまって初詣をし、そのままお神酒を飲んだりなんだりして、海だの河原だの丘だのに行って初日の出を拝み、そして家に帰ってくるという過ごし方をしたので、眠らなかったのだ。眠らなければ夢を見ることもないので、初夢は次の日に見る夢ということになる。
初夢というのは、しかし、意味のないものである。1月1日が1月1日でなければ、その日付で年が変わると定められなければ、少しも「初」ではない。大昔、西暦が始まったときか、太陽暦が採用されたときか、いつだかに誰だかが「この日を1月1日とする」と定めたからいまの暦があるだけのことであり、そういう意味では、意味がない。同じように、初詣も初日の出も意味のないものである。
一方、同じ「初」でも初雪は意味がある。冬が終わって春が来て夏が来て秋が来て、そうして冬がやってきて初めて降る雪が初雪だ。これは人間の意向とはまったく関わりなく、自然の営みに沿ったものである。
さて、この暑い盛りになぜ初夢だ初雪だと話しているかといえば、今日わたしが「初」を体験したからだ。「初ツクツクボウシ」である。夏の始まりとともにアブラゼミなんかが鳴き始め、ミンミンゼミが鳴き、朝夕にはヒグラシが鳴き、そしてツクツクボウシが鳴くと夏が終わる。「初ツクツクボウシ」といっても、わたしが観測したのが今日が初めてだったというだけのことであり、今年のツクツクボウシが初めて鳴いたのはもう数日前のことかもしれないが、ともかくわたしにとっては「初」であり、それはわたしにとっての、夏の終わりの始まりであった。
もう成人したわたしには、夏が終わることに対してさほどの感慨があるわけでもないが、こどもたちにとって夏の終わりといえば、宿題の山である。宿題を夏休み前半に片付けられるようなこどもとは仲良くなりたくないといっても大した非難を受けないのではないかというくらい、夏休みの宿題というものはなかなか片付かないものである。それでもツクツクボウシが鳴き始める頃には、えいこら重い腰を上げてしょうがないちょっとずつ片付けていかないと今年も泣きをみるぞというように宿題に手を付け始めるのだ。
夏休みの宿題。自由研究があったり、アサガオの観察記録があったり、そして読書感想文である。
わたしは今日のブログ記事は読書感想文を書くつもりだった。初雪の話から始めて、「世界の終わりという名の雑貨店」を読んだときの感想や、同名の映画を観たときの感想なんかを書くつもりだったのだ。しかしどう考えてもこの文章はもう終えた方がいい。世の中にはもっともっと長い文章を書く人たちがたくさんいるが、ともかく今日のところはこれでお開きとするのが得策だろう。続きはまた今度。