あなたにとっての赤の他人は、あなたの友人の友人かもしれない

事件の話を聞くのは興奮するものだ。それが起きたのが自分の身近であればあるほど、そして事件の当事者が自分と関わりがないほど、野次馬的好奇心は高まるし、ワイドショー的分析心は高まる。これは人間全般の特性であるだろうから、そのような兆候を見せた人間を個別に非難するべきではないだろう。
私の住む街にある大学の構内で、投身自殺があったらしい。詳しい話は知らないし、興味はない。飛び降りた人が亡くなったのか未遂で済んだのかも分からない。ただ私が知っていることは、私の知人がこの話を知っているということと、飛び降りてしまった人には親しい友人がいたということだ。それを知るだけで、この飛び降り事件は私にとってのリアリティを増す。
さて、これは私には関係のないことだが、この事件を面白がった人がいるそうだ。なるほどたしかに自分の身近で飛び降り事件が落ちたら興奮するだろう。もし推理小説が好きだったら、なにかの事件性を類推して楽しむことも出来るかもしれない。それは、しかし不謹慎だ。
しかし不謹慎であることは、それ自体はもはや非難されるようなことではない。ワイドショーで殺人事件が取り上げられたとき、その扱いは報道の自由の範囲を超えている場合が多いことに異論はないだろうし、だからといって不謹慎だと取りざたすような話でもないだろう。
他人の事件になど興味をもたないほうがいいといいたいわけではない。騒ぎ立てるのは不謹慎だとは思うが、それを非難するべきだとは思わない。ただ、その話をする場所にはTPOがある。そのTPOを間違えたとき、いまの言葉で言えば「空気読めよ」ではあるのだが、そのときは非難されるのが当然だろう。
あなたにとっての赤の他人は、あなたの友人の友人かもしれない。他人の噂話をしているつもりが、その話をしている相手にとってはその人は大切な人であるかもしれない。
もちろん、いつもそういうことを考えていたら何も話せなくなってしまう。そう、教訓としては、他人の話はしないほうがいいということだろうか。他人の話なんてしなくても会話は出来ないわけではない。他人の悪口を話さなくても、会話することは出来る。私はそれを知っている。それを知らない人もいる。それだけの話である。