ぼくが演奏するときに考えること

知人のブログに、こんなことが書いてあった。

音楽を演奏している時、音楽家は何をか考えるだろう。

 ・目の前の楽譜を「正確に」再現することに集中する。

 ・作曲家の見えざる「意図」を感じようと努力する。

 ・作品の背景にある時代考証(音響、発声等含む)を「的確に」表現する。

 ・作品の背後にある精神性(時に宗教性)を感じる。

 ・楽器の特性を十全に発揮しようとする。

どれもが真であり、偽なのかもしれない。

http://chikaplogic.blog63.fc2.com/blog-entry-22.html

これを読んで驚いた。私がもっとも重要だと思っていることが挙げられていない。
よく読んでみると、「音楽を演奏している時、楽家は何をか考えるだろう。」とあり、「演奏者」などの言葉ではなく「音楽家」を使っているので、なるほどそうかもしれないと思いつつ、いややはり言葉の問題ではないよなと思った。


私が音楽を演奏するときにもっとも重要だと思っていることは、自分という存在を表明しようとすることだ。個性を表現する、というのは少し違う気がするのだけど、だいたいそんな感じ。自分ができること、自分にしかできないことを表現するといったところか。
これはひとりで演奏するときだけでなく、合奏なんかでも同じことで、自分たちの楽団・チームができる音楽を最大限に表現しようぜといったことを考えている。

次に考えることは、観客・聴衆のことだ。聴いている人を楽しませたい。聞いているだけの人の意識をこちらに傾けさせたい。できることなら、なにか感動させてみたい。そんなことを考えて演奏している。


知人はブログに、第三者(聴衆)の重要性を続けて書いていて、この点については異議はない。


自動演奏を行うピアノの奏でる演奏は、「音楽」だろうか。名ピアニストの演奏のテンポや音量をそっくりコピーした自動演奏のピアノは、「音楽家」だろうか。たぶん違うのだけど、はっきりとノーと言ってしまえない。
フルートで「熊蜂の飛行」を演奏するロボットもいる。このロボットに「情感」を持たせることは不可能ではないだろう。それに、私たちはオルゴールの奏でる音楽に感動することができる。
「自動演奏」に感動することができるのは、それをプログラムしたのが人間であるから。
そして、ミスのない精密な演奏よりも、奏者の感情が剥き出しになった激しい演奏にこそ感動することを、私たちは知っている。


音楽が音楽であることの要件に、人間が関わっている必要があるとしたら、音楽を演奏するときには、人間にしかできないことにこそ集中するべきではないかと思う。それは、作曲家の思考のトレースをすることではなく、自分自身の心情を流し込むことなのではないかと思う。
政治的に正解である音楽は、たぶんそんなに楽しくない。その人が個人的に正解だと思い込んでいる音楽のほうが、たぶんずっと楽しいだろう。