知られていないことは存在しないということ
子どものころ、だれも鏡を見ていないときの鏡には、なにが写っているんだろうと考えていた。おもちゃ箱のぬいぐるみたちは、みんな寝静まったころに動いて遊んでいるのだろうかと考えていた。
箱を開けてみるまで結果がわからないシュレディンガの猫は、観測することと実存することを混乱させる。
この目で見たことしか信じないならば、見ていない場面をどのように想像しても自由だということになる。
インターネットの世界において、検索エンジンにひっかからないことは、存在しないことと同じことだ。このとき、検索エンジンは神の資質を得て、そのページが存在するかどうかを決定する。
ここに、私がいる。私がいることは私が保証できるし、多くの知人が担保してくれる。しかし、たとえば隣のアパートにだれかが住んでいることを、私は保証できない。ある特定の柴犬が生きて死んだことを、私は認識できない。記録に残らなかった数百年前の農民や被差別者や奴隷たちがそれぞれに人生を生きていたことを、私たちは想像することしかできない。
もしかしたら、世界は、ほんの5分前に再構築されたのかもしれない。
現実的に、科学的に考えたところで、知られていないということは存在しないことと同じである。
何億年も昔から、宇宙にブラックホールは存在していたが、それが観測されるまでは、存在していなかったのと同じことだ。名もなき詩人のうたった詩は、記録されたものが知られていなければ、最初から うたわれなかったのと変わらない。
伝えたいことがあるならば、知らしめていかなければならない。
私たちの言葉は、行動は、思考は、知らせなければ限られた範囲にしか届かない。広めようとすれば、少しだけ遠くに届く。知っている人が増えれば増えただけ、その存在の確からしさが少しだけ濃くなる。
すべてを知ることはできない。すべての人に知らせることもできない。できることは、知らないということを知ることと、伝えたいことを知ることだろう。