id:fromdusktildawn がいる人生

尊敬するかどうかはともかくとして、id:fromdusktildawn は目標にしたい人物だ。彼のブログや、twitter、主宰するSNSでの言葉・議論などは、私にずいぶんと影響を与えている。彼がブログを書いていなければ、私はニーチェドラッカーも読まなかっただろう。
彼のブログ「分裂勘違い君劇場」にはたくさんの はてなブックマークがついているが、私がもっとも好きな記事は、「未来の転職が、過去にさかのぼって現在の自分を有能にする」という記事。これと、「身も蓋もない仕事の法則」は、たびたび読み返している。「子供の「どうして勉強しなきゃいけないの?」→ 勉強することの具体的で直接的で切実なメリットを説明」なんて文章を書けるような人がどのくらいいるだろう。こういう人になりたいと思うし、この人に認められるような人間になりたいと思う。


普段の生活のなかで、たとえば職場の会議に参加するとき、私はたびたびfromdusktildawn氏のことを考える。もしこのテーブルに彼が座っていたとして、自分は彼に認められることができるだろうかと考える。いまここで、一般的には空気が読めないとされるような、しかし議論のうえで重要であるはずの発言を私がするとして、それはfromdusktildawn氏にどう評価されるだろうかと考える。それが彼に評価されるに違いないという自信があれば、たとえ現実に会議に参加している同僚や上司たちに眉をひそめられたとしても、私は発言できる。
それはある意味で仮想敵みたいなものであって、目の前にいる利害関係者だけでなく、そのもっと上のステージにいる人の象徴として、fromdusktildawnがいる。


以前、「Twitter名言集」を編んだことがあった。このとき選んだ言葉のひとつに「ここで、ジョセフジョースターならどういう判断をするやろうか?」というものがある。「もし、この場にあの人がいたとしたら、どうするだろうか」という行動指針は、強力だ。
しかしここで信者になってしまうのは、とてもつまらない。信者ほどつまらない生き方はないと私は思う。目標にしたり、尊敬したりするのはいいが、「こいつよりもっと強くなる」「この人よりもっと幸せになる」という考えも忘れてはいけないだろう。


私はいま25歳だが、私の20代にはたしかにfromdusktildawn氏の存在があったし、これからの5年間にも降臨し続けるだろうと思う(氏がインターネットでの活動をやめたとしてもそれは変わらない)。
さて、私がもう少し年長になったとき、私は誰を行動指針にしているだろう。あるいは、私は誰かの行動指針として強く存在していられるだろうか。