ひとつの事実はかならず複数の視点から捉えることができるし、日常は発見の可能性に満ちている

簡単に書きます。
たとえば、ある日、寝坊をしたとします。急いで行かないと会社に遅刻してしまいます。今日は資源ゴミの日だから溜まっているペットボトルを捨てたかったのにとか、シャツにアイロンを掛ける習慣があるのに今日は掛けられないとか、いろいろマイナス要素があります。朝食も満足に食べられません。しかし、なんとか、遅刻せずに出社することができました。
いまの例だと、普通に考えれば「寝坊したのでバタバタしてしまい、遅刻はギリギリ避けられたが大変だった」となります。しかし、別の見方をすると「慌てて行動していて交通事故などの危険性も高まったにもかかわらず、無事に始業時間前に出社できたし、財布や定期券やIDカードを忘れるということもなく、お昼にはもう寝坊したことは忘れていた」というように捉えることができるかもしれません。
例を挙げればキリがないのですが、つまり、事実は常にひとつしかありませんが、それを解釈する方法はひとつではないのです。「逆に考えるんだ」という発想方法がありますが、別に真逆に考える必要はないでしょう。
さて、例として寝坊の話をしましたが、これは私の実体験に基づくことだからです。つまり、それが記事タイトルの後半「日常は発見の可能性に満ちている」ということで、なにも自己啓発セミナに通ったり、同じことばかり書いてあるようなビジネス本を読んだり、はてなブックマークの[ライフハック]タグを購読したりしなくても、日常のなかに「気づき」の可能性はいくらでもあるんじゃないかな、ということが2つ目の話です。
これで今日の話は終わりです。この文章の事例をいろいろ肉付けしていくと、立派な意見文になることでしょう。