不幸になりにいく幸福としての結婚

夫婦というのは特殊な関係だ。世の中のとても多くの人たちが夫婦関係を築いているので、私たちはこれに気付かないことが多い。
親子をはじめ血族についての人間関係は、自分で選ぶことができない。結婚相手は自分で選ぶことができる。
学校、会社、地域社会などの人間関係は、ある程度は自分で選ぶことができる。また、基本的には、そこでの人間関係はそのコミュニティの利潤最大化を目指す。職場には、嫌いな同僚、苦手な上司などもいるだろうが、その人たちとの付き合いは職場の目的(大抵の場合は、お金を稼ぐことだ)の達成がまず大前提にあるのだから、その前提から逸脱したことは起こりにくい。
これらに対し、夫婦関係は、自分で相手を選ぶことができる上に、両者の利潤最大化を目的とした関係ではない。

(なお、ここで話題にしている2人の関係を単に「夫婦」「結婚相手」と言うのは限定的であり、同性婚事実婚などを考慮していないようにみえるかもしれない。言葉の使い分けが煩雑でもあり、また実態も詳しく知らないため、あまり断らず「夫婦」と書くが、これには結婚状態の同性カップルも含めたい。)

なぜ結婚するのか

夫婦関係は、両者の利潤最大化を目的としていない。
なぜ結婚するのかという問いは、たくさんの人たちが口にしてきているだろう。
結婚する理由として最も重要なのは、出産育児に対する行政の支援が厚いということだ。世間も、行政も、シングルマザーに対しては十分な支援を行わないという状況がある。離婚による寡婦寡夫はだいぶマシだが、未婚の母となると、かなり厳しい(「みなし寡婦控除」などで検索すると新聞記事など出てくる)。
生物としては、出産は当然のことだ。しかし、人間は単純に生物として生きるのではないところで生きているのだから、出産育児を行わない人間がいることはむしろ素晴らしいことだと私は思う。ともあれ、出産育児のためには、両親は結婚していることが望まれている。だから、私たちは結婚する。
では、子どもがいない場合、結婚することにメリットはあるのか。同性婚を行政が認めるべきだという流れがあるのは、結婚していない他人同士はあくまでも他人であり、他人同士には行えないことがたくさんあるからだ。生物学的には子どもをつくることのできない同性カップルが法的な結婚を求める理由を知ることは、異性愛者が結婚する理由を考えることともつながる。
同居することは、結婚しなくてもできる。生活費の削減や、共同生活による精神衛生という意味なら、それは友人とのルームシェアでもできる。
結婚することの、はっきりと説明できる利点は、子育ての扱い以外には、ほぼない。これは結婚が無意味だというのではない。わかりやすく説明できるよさは少ないということだ。これが「夫婦関係は、両者の利潤最大化を目的としていない」の意味である。同様に考えると、家族関係も、構成員の利潤最大化を目的としていないと言える。

同居することの不幸

愛しあったふたりがいっしょに住むと、たいてい衝突が起こる。露見するか、解消するか、蓄積するかはそれぞれにあるだろうが、ともかく衝突が起こらなかった事例を聞かない。育ってきた環境が違うから、セロリが好きだったり嫌いだったりするのは仕方ないのだ。
私がよく話のネタにするのは、洗濯物の干し方でケンカになったことだ。シャツを裏返して干すのか、着られる格好で干すのか。そんなことはどうでもいいことだと思うのだが、いざ自分のやり方を否定されると、自分のいままでの人生すべてを否定されたかのような気分になるから不思議だ。
「バスタオル問題」と呼ばれる、風呂あがりに使うバスタオルは毎回洗濯するのか、家族で共同使用するのか、数日間は使い続けるのか、そもそもハンドタオルを使うのか、という問題もある。同世代の既婚者と「バスタオル問題」について話すと、かなり盛り上がることが多い(その家庭で両者を立てた解決をみていれば笑い話になるが、どちらかが我慢している状態だと危険なこともある)。
なぜ、衝突が起こるのか。それは、私たちの生活様式には、正解しかないからだ。バスタオルを毎回洗濯するのは、衛生上はまったく正解だ。しかし、バスタオルを使う状況というのは身体は清潔になっているのだから、家族間で使いまわすのも悪くないだろう。日々の家事を担当する者としては、洗濯物の量は少ないに越したことはない。この考え方もやっぱり正解だ。それぞれの正解が邂逅すれば、そこに争いが生じるのは道理である。
衝突が起きたとき、両者はこれを解決する必要に迫られる。それぞれの正解があってよかったのは、それぞれが別個に生きていたときまでだ。今日からは共に生きるのだから、新しい「ふたりのルール」の構築が望まれる。ふたりのルールは、精神衛生も含めた清潔感をとるだろうか。家事の手間やベランダの物理的広さを根拠にした妥協を要求するだろうか。それとも、ハンドタオルの導入による別の着地点を見つけるだろうか。
そこには、ふたりだけの正解がある。ふたりだけの正解には、利潤最大化という観点はない。

不幸になりにいく幸福

「夫婦間での不幸の共有は無意味ではないか」という意見を読んだが、これは間違っていると私は思う。
片方がなにか不幸であるとき、他方はその悲しみや不自由さに寄り添うことができる。寄り添わなくてもよい。
たとえば、こんな話。片方が交通事故で骨折して、入院している。本人の意識等には問題なく、悪化の心配もないが、数週間の入院を要する。他方は毎日病院へ見舞っているが、次の週末は友人たちとスキー旅行へ行く計画があり、遊びに行ってもよいものか迷っている。計画はあるが、宿の予約などはまだキャンセルできる。友人たちも理解を示すだろう。すごく楽しみにしていた旅行ではあるのだが。というのは、どうだろう。
あなたがスキー旅行に行っても行かなくても、相手の骨折は治ったり悪化したりしない。「だから行く」のか、「だけど行かない」のか。そのときどきで判断は異なるだろうが、「行かない」を選んだとき、そこには「不幸の共有」がある。
片方の不自由に寄り添うことで、不自由を共有する。そのことは、おそらくふたりの利潤を最大化しない。ふたりとも一時的に不幸になってしまっている。
しかし、夫婦は利潤最大化を目指さないのだから、それでよいのだと私は思う。もっと言えば、「不幸の共有」ができないなら、家族である意義はない。悲しみや不自由に積極的に寄り添うことができる関係が、結婚であり、家族なのではないか。

「この人のためなら自分のことをあきらめられる」とは、不幸を共有することをも幸せなことだと感じられる、ということではないか。
結婚という行為に、わかりやすい実利はない。しかし、一見すると理不尽にも思える価値判断を行えるということは、幸せなことだと思われる。幸せとは、わかりやすくないということだ。
どれだけ自分が努力しようとも、相手を完全に理解することはできない。完全に幸福にすることも絶対にできない。そう認識した上で、自分ができるだけのことを最大限行おうとすること。それが、利潤最大化を目指さない不思議な関係において共有されるものである。
たぶん、私たちはそれを、愛と呼ぶ。