生き続ける私の個人史(29歳から30歳へ)

私の20代は、平均的な同世代と比べるならずいぶん波瀾万丈なものだった。
平均的な同世代は、致命的には精神を病まないし、大学を中退しない。そんなことがあれば普通なら実家に帰るかもしれないが、私は帰らなかった。また、私と同程度の大学に入った同世代は、24歳で結婚したりしない。仕事に就いたり辞めたりを繰り返すのは、必ずしも珍しくはないだろう。ひとつひとつの出来事は一般的なものだけれど、それが自分に重なってくると、なかなか忙しいことだなあと思わされる。


私の29歳は、絶望的な状況のなかで開幕した。
転職して1年も経たないうちに、出勤できなくなってしまった。決定的に脱落した日は、朝が来てもどうしても布団から出ることができず、電話を掛けることも受けることもできず、時間がどんどん過ぎていった。その数週間前から、月曜の朝には遅刻気味になっていて、典型的な出社拒否だよなあと思いながら働いていたものだった。ブラック企業と呼ばれて差し支えないであろう労働環境ではあった。最後の数週間の私は、表情筋がずいぶん硬くなっていたという。働いていた当時は、その状況で邁進することの意義をそれでも感じていた。いまもその感情は否定しないし、あの破綻があったおかげで、いまの生き方を選択できたのだと思っている。
当時の会社を辞めてから、もう一度、別の会社に就職したことがあった。こちらも私には向いていなかった。すぐに辞めてしまった。便宜を図ってくれた方には申し訳ないことをした。自分にとっても、金と時間となけなしの体力をドブに捨てるような格好になった。この破綻も、ダメ押しになったという意味で、必要だったように思う。


私はサラリーマン的働き方をするべきではないのだ。
精神的に弱いようでいて、案外、頑張れてしまう。けっきょく潰れてしまうのなら、頑張ることはきっといいことではない。
いろんなことが少しずつ違っていれば、健康的にサラリーマン的働き方ができていたかもしれない。これまでのいくつかの職場において、それぞれにいくつかの要素がもう少しだけまともであれば、もっと気持ちよく働けたのに、と思わないではない。しかし、どこへ行っても同じように「もう少しマトモならなあ」と思うということの意味は、どこへ行っても微妙に合わずに摩擦していくということだ。そんな生き方を、いつまで続けるのか。


私は働き方を変えた。仕事を複数持つことにした。
ひとつの仕事は、健康で日本語ができれば誰でもできる仕事。同僚の多くは、子育てが一段落した程度の年齢の女性だ。シフトが決まっていて、時給で賃金が決まる。夜間に働けば時給は割高になるが、健康的な生活を優先することにした。
月収が10万円程度になるように働くことは、まいにち朝起きて、無理のない時間だけ身体を動かし、まいにち夜眠るという生活を設営する助けにもなっている。
まいにち無理のあるほどに働き、睡眠の時間も質も足りず、趣味の時間も持てず、満員電車に乗り続け、愚痴ばかり口にして、それでいて月収が20万円程度であった時期のことを思い起こすと、いまの働き方はとてもよいと思う。
パートタイムの仕事をすることで、安定した生活と、ある程度の収入を得た。このほかに、知人の会社の事務系仕事や、知人の音楽家のちょっとした仕事などを請けている。現状では、こちらの事務系仕事からの収入は少ない。次第に増やしていければいいと思っている。


今でしょ!」で有名になった林修さんが、「情熱大陸」の出演時にこんなことを言っている。
「いまはすごく忙しいけど、じゃあ来年のいま同じように忙しいかというと、そうじゃないはず。いま忙しくて、来年そうじゃないということは、どこかで変化点があるはず。そこで不連続になる。不連続関数なんですよ。」
時間は前にしか進んでいかないし、人生はいつも連続している。けれど、人生の質的なもの、内容的なことについては、不連続関数として捉えられる。
昨日があり、昨日と似た今日があって、今日に似た明日が来ると予想できるけれど、1年前と同じ今日ではないし、今日と同じ1年後もおそらくない。


生きることは、生き続けることだ。
過去に起きたこと、起こしたことは、取り消せない。昨日までの生き方の責任を取りながら、今日と明日を生きていく。今日の選択は、明日には、取り消せない昨日になっている。
いつだって過去に悔いはある。
過去を悔やむことを否定してしまうのは、誠実ではない。
あのときもっとうまくやれたはず、あのときあんなことしなければよかった、そういう悔いがなければ、今日の選択は昨日と同じものになっていく。それでは「変化点」は生じないだろう。
生き続けることは、日々の連続のなかに生じる変化点を観測していくことだと思う。


私は30歳になっていく。
次の一年へ向かって、さしあたってはコーヒーを淹れようか。