『新・冒険王』、繰り返される演劇のことば

六本木シアターにて、平田オリザの『新・冒険王』を観た。
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平田オリザ脚本の舞台を観るのは、舞台『幕が上がる』につづいて2回目。
『幕が上がる』は演出家が違うし、役者もずいぶん違うので、単純に比べられるものではない。


日本語と韓国語と英語が飛び交い、字幕も表示される『新・冒険王』は、かなり脳が疲れるものだった。舞台上では複数の会話が同時に交わされている。なまじ英語が聞き取れてしまい、韓国語もなんとなく字幕を頼りに聞き取ろうとしてしまうのだから、疲れないはずがない。会話が1組だけになるときも多いのだが、それはたいてい物語上の重要なシーンであり、耳と目は落ち着いても脳はけっきょく休まらない。


役者たちは極めて自然な演技をしていて、いま観ているのは芝居なのだという感覚がとても薄い。これは平田オリザ演出の特徴らしい(「らしい」というのは、他の演劇作品をほとんど知らないから)。
私たちが普通に話をするとき、相手が話し終わる前に遮りながら話しだすこともあるし、微妙に間がもたなくなることもある。そういうことが自然に再現されている。極めて自然な演技と感じられるのは、おそらく極めて異常な演出によるものなのだろう。


『新・冒険王』は、2002年の、日韓共催サッカーワールドカップ決勝トーナメント1回戦・韓国対イタリアの試合が行われている瞬間の、イスタンブールの安宿の一室が舞台になっている。部屋には数人の日本人と、数人の韓国人が滞在している。別の部屋には在日韓国人もいるし、日本語の得意なアルメニアアメリカ人も登場する。
史実にもとづき、サッカーの試合はイタリアが先制するが、後半終了直前に韓国が同点に追いつく。その様子は、イスタンブールの安宿にも逐一届いているけれど、その部屋にはテレビはない。芝居はサッカーを主軸として展開するというわけでもない。試合展開はたしかに登場人物たちを行動させるけれど、舞台を展開させているのは滞在者たちの複数の会話だ。そこに物語はない。時間とともに積み上がり続けるいくつもの会話だけが、そこにある。


サッカーの会話があり、もつれた恋愛の会話があり、下世話な噂話がある。
象徴的な会話は、負の記憶についてのものだ。
アルメニアアメリカ人が話す、アルメニアの大虐殺の話。それを聞く日本人も韓国人も、誰もその事件を知らない。
韓国の光州でも、軍と民間人との間で大きな衝突があったという話。光州出身の韓国人は、そのときの自分が若すぎて何もできなかったことを悔やむ。
911の話。この作品が2002年6月のイスタンブールを舞台としているのは、アフガニスタン侵攻により、バックパッカーたちが中東を移動しにくい状況が背景にある。
阪神大震災の話。関西出身の女性は、そのときネパールにいて、地震があったことをしばらく知らなかった。


サッカーは続いている。後半43分、韓国が追いつき、延長戦へ。韓国人はもちろん、日本人もなんだか乗せられてしまって、テレビがある場所へと集まっていく。それでも観戦に駆けつけようとしない同室の住人たちに、「歴史的瞬間ですよ!」と非難めいて叫ぶ声がする。


「歴史的瞬間」。
「そのとき、どこにいたか?」ということ。
光州出身の男性は、「そのとき」、そこにいなかったことを悔やんでいる。
関西出身の女性は、「そのとき」、すぐに帰国できなかったことを消化できていない。
舞台『幕が上がる』では「東日本大震災のとき、どこにいたか」という話題が、物語の大きな山場として登場する。 (舞台『幕が上がる』が2015年に演じられた意味について - うしとみ
あのとき、どこにいたか。どこで、それに立ち会ったのか。それはほとんど偶然に決まることなのに、立ち会えなかった体験は後悔につながる。


「歴史的瞬間」に立ち会うことではなく、旅人として世界を眺めることに重きをおく。それがバックパッカーたちの愉しみなのではないか。旅をしない私は、そう想像する。
自分の足で世界をまわり、自分の目で見て、自分の肌で感じることは、自分のタイミングで世界を楽しむということなのではないか。そんな自由を求めているはずなのに、「その瞬間、その場所にいたか」という呪縛から逃れられない。


『新・冒険王』は、長く旅行を続けている日本人が、釜山の海から日本を見てみたいと話すことによって収束していく。英語と韓国語と日本語の入り混じった会話のなかで、後悔を抱えた人物が、ほんのわずかに救われたように見えた。


役者の演技があまりに自然で素晴らしいから、私は作者のことにばかり気が向いたのだろうと思う。
パンフレットに記された平田オリザの言葉を引用する。

この舞台の主題の一つは以下にある。
日本はまだ、アジア唯一の先進国の地位から滑り落ちたことを受け入れられない。
韓国はまだ、先進国の仲間入りをしたことに慣れていない。

正直なところ、私にはこの言葉の意味がさっぱりわからない。さっぱりわからないが、おそらく、それでいいのだと思う。
2時間程度では、人はそんなには変わらない。「歴史的瞬間」もそう簡単に訪れはしない。それでも、さまざまなことの積み重ねは、変化を生む。それがつまり、この作品が映画ではなく、繰り返し上演される演劇であることの意味のひとつなのではないかと思う。同じ脚本を何度も演じる演劇は、「そのとき」を希薄にするのと同時に、「そのとき」を唯一のものにもする。逃れられない「歴史的瞬間」の呪縛から逃れるための手段として、演劇のことばは存在しているのかもしれない。