アイドルとしての栗原はるみ、思想としての家事

生きることは生き続けることであり、生きることは食べることである。すなわち、生きることは食べ続けることである。食事によって、日々の生命活動は成り立っている。だから、食事は重要なのであり、家族の食事をつかさどる「主婦/主夫」の役割は大きい。

小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代 (新潮新書)

小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代 (新潮新書)

阿古真理『小林カツ代栗原はるみ 料理研究家とその時代』は、料理研究家たちに注目して書かれた本だ。あとがきにもあるが、「女性史」として読むことのできる本でもある。
本書が取り上げる「料理研究家」とは、テレビの料理番組やレシピ本などへ、レシピを提供する人たちのことをいう。レシピの提供の受け手は、家庭で料理をつくる主婦である。だから、料理研究家の話をすれば、主婦の歴史の話になるのは自然なことだ。


「主婦は「今日の料理」を何にするか悩み続けている」と著者は指摘する。近代になって「主婦」が成立して以降、女性が外に働きに出ることの是非が繰り返し議論されている。
「家にいるからには、料理に手をかけて妻らしさ母らしさを発揮したい。そんな彼女たちを手助けしたのが、主婦雑誌やテレビの料理番組だった」(p23)。献立に悩むことは、主婦となった女性たちの存在証明でもある。



小林カツ代栗原はるみ』の面白さは、料理研究家を論じたことにより、料理研究家の役割がレシピを提供することではなく、女性の生き方の指針を提供することだと明らかにしたことにある。
著者は「小林カツ代は、アジテーターと言える」と書く(p153)。小林カツ代は、「家事を減らしたい、でも、ちゃんとつくって家族に食べさせたいというアンビバレントな気持ちを抱く主婦に、処方箋を示した」(p89)。
小林カツ代といえば「時短レシピ」の先駆けだ。時短レシピを次々に提供し、スパイスやハーブにこだわるのではなく既成品を堂々と使う。その姿勢は、おそらく、主婦という生き方を模索する人々にとって、ひとつの希望であったのではないか。


もう一人の主役である栗原はるみを、著者は「アイドル」だと分析する。「熱狂的なファンをたくさん持つタレントとしての自覚」をもち、「愛されるための努力」を惜しまない。
栗原はるみのつくる書籍には手づくり感がある。そのスキは、たとえば雑誌『 ku:nel 』の洗練された紙面と比較したときに、庶民的であり、気楽さがあるという。
栗原はるみの代表作『ごちそうさまが、ききたくて。』は単なるレシピ本ではなく、生い立ちを語るエッセイがあり、彼女の自宅や私物を写した写真がある。「これは、栗原のライフスタイルを見せる本なのである」(p140)。洗練されきっていない生活を見せるということは、そこへ向かう努力をも客に見せるということにつながる。それはたしかにアイドルの戦略だ。


アジテーターはたしかに思想を提供するだろうが、アイドルはどうか。カリスマ主婦は、主婦のロールモデルとして成立するのだろうか。


家事の政治学 (岩波現代文庫)

家事の政治学 (岩波現代文庫)

柏木博『家事の政治学』は1995年に出版された本だが、2015年に岩波現代文庫で復刊された。本書は、主にアメリカにおける家政学の歴史と市民の生活史とを、断続的に読み込んでいくものだ。書かれてからの年月を感じさせない面白さがある。本書の背骨にも、家事を考えるということが、生活を、ひいては人生を考えるということになるのだという精神がある。
『家事の政治学』の最終章は、次のように締められる。

労働や貧困、災害や戦争、市場のシステムや過剰な消費、理想の家庭・ユートピア。いまだ解決されない近代の問題を、家庭生活(家事労働)を中心にして思考しようとした家政学の視点はすでにはるか以前に忘れ去られているように思える。(略)わたしたちは、忘れ去られた家政学(家事労働の思想)から多くの可能性を引き出すことができるのではないだろうか。


家庭生活や家事労働から、より広い社会に目を向けることは、あまり簡単ではないだろう。東日本大震災を経験した私たちであっても、個別の生活と社会はすぐには接続されない。家事は家事であり、政治は政治であると考えてしまう。


料理は、炊事は、家事であり労働であった。


小林カツ代栗原はるみ』の終盤では、ケンタロウやコウケンテツなど「男子」料理研究家にも触れている。彼らもまたアイドル的人気をもつ。
アイドルが教える料理は、もはや労働ではない。自分や好きな人のために、自分が好きなときにだけ行えばいいことが現代の炊事であるならば、それは娯楽である。娯楽を教えるのはアイドルでも構わない。
家事が労働であり続けるべきだとは思わないが、たしかに家政学が目指していた視点からは遠く離れていると言えるだろう。



マンガ『高杉さん家のおべんとう』は、炊事と食事によって家族の関係性が発展していく物語だ。

高杉さん家のおべんとう 1

高杉さん家のおべんとう 1

おなじ食事を摂ること、日々の炊事を積み重ねることで、彼らは家族を再認識していく。
8巻・第53話に、こんなセリフがある。定年退職した一人暮らしの女性が話すセリフだ。

私ね最近実家によく帰るの 時間もできたし両親も高齢ですし
帰ってもやることは一人でいる時と変わらないのよ 掃除したりごはんを作ったり なのに不思議なの
私事(ワタクシゴト)が家事(イエゴト)になると何かモヤモヤするのよ
反応が欲しくなるというか

ここには家事の本質がある。私事はあくまでも私事であるが、家事はやはり労働なのだ。労働には対価が支払われなくてはならない。家事の対価は、家族の反応である。



料理研究家は、これからどこへ向かうだろうか。
クックパッドによって、すべての人が料理研究家になれる時代である。レシピの提供だけなら、Googleで検索するほうが効率がいいかもしれない。
それでも料理研究家は活躍を続けるだろう。彼らの仕事は、レシピの提供ではなく、炊事を通した生き方指南にあるからだ。
小林カツ代が起こした革命は、栗原はるみによってさらに日常化された。辰巳芳子は思想家としての役割を担っているし、平野レミは笑いによって安堵と自信を提供している。
次に登場する料理研究家は、どんな人だろう。あるいは、家事や炊事を描いたマンガは、次はどんなものが登場してくるだろう。それに注目することで、私たちの社会と家族のありかたが見えてくるはずだ。