『響け!ユーフォニアム』はなぜ素晴らしいのか きっと「特別」ではない私たちの物語

テレビアニメ『響け!ユーフォニアム』が素晴らしい。この文章を書く時点では第12話まで放映されていて、最終話となるはずの第13話は未放送だが、素晴らしいと言い切ってしまっていいだろう。
『劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~』公式サイト


素晴らしい作品には、2つ条件がある。1つは、鑑賞者がその作品の世界に入り込めることであり、もう1つは、鑑賞者が体験し得ないことが描かれることである。
黒木華ベルリン国際映画祭で女優賞を受賞した映画『小さいおうち』。黒木華の演技はとても素晴らしいが、冒頭の、現代の火葬場での会話の場面があまりにも説明的で映画に入り込む気が起きず、それが終始引っ掛かったため作品としての魅力はいまひとつだった。自然なセリフ、違和感のないキャスティング、文法に則った演出。さまざまなお膳立てが整うことで、作品はその門の幅と敷居の高さは適切なものとなる。

リアリティがあるだけで素晴らしい作品になるわけではない。映画『桐島、部活やめるってよ』は、クライマックスでの屋上での乱闘と、そこで挿入されるゾンビ映画風映像によって傑作たりえている。あのようなゾンビ映像は実際には存在しないわけだし、そこに「エルザの大聖堂への行列」が重なって聞こえることも本来はありえない。あの屋上の場面において、なお圧倒的に「美少女」として存在する橋本愛により、鑑賞者は現実には到達できない世界を見せつけられ、感動させられる。


響け!ユーフォニアム』が素晴らしい理由ははっきりしている。人生というものがそもそも素晴らしいからだ。
人生は素晴らしいし、高校生活は素晴らしい。そうでないと主張する人も多くいるだろうけれど、少なくとも『響け!』は高校生の人生をとても好意的に捉えて描いている。
私たちは普段忘れがちだ(というか、わざと無視している)が、この世界で生きているのは私だけではない。この世界では、私のほかにも、私の家族や、隣人や、同級生や同僚も生きているし、外ですれ違う見知らぬ人たちもすべて生きているし、そのすべての人たちにはそれぞれ家族や隣人や同級生や同僚がいて、彼らもやはり生きている。これは恐ろしいことだけれど、たしかにそのようになっている。誰もが、自分こそが自分の人生の主役だと思っているはずだし、そしてそれはそのとおりである。
翻って、フィクションの作品では、誰もが主人公であるという表現は難しい。作家は個別のキャラクタの背景にある物語を細かく設定しているかもしれないが、作品として現れてくるのは、主人公とその周辺の数人だけの物語であることがほとんどだ。ともすれば、主人公との間柄によってキャラが設定され、データベース的に割り当てられたキャラクタたちが、お約束の展開をしていくことになりやすい。そのような作品世界は、お約束を知っている鑑賞者にとっては参入障壁が低いともいえるが、そこにあるのはもはや鑑賞ではなく消費でしかない。


主人公の周辺以外のキャラクタにも人生が垣間見える例として、マンガ『スラムダンク』を挙げる。陵南戦の途中で倒れ、体育館の廊下で休む三井寿。「なぜオレはあんなムダな時間を……」とつぶやくシーンに、「オレ、もっとポカリ買ってきます!」と駆けていく補欠1年生がいたことを覚えているだろうか。あの1年生はバスケでは補欠であり、先輩たちや流川や桜木に憧れ、いつか自分もと心のなかで燃える役回りでしかないとも言える。しかし、熱心な読者であれば、彼には彼の物語の蓄積があり、彼の人生は前後に続いているということが、あのシーンから読み取れたはずだ。補欠1年はけっして通りすがりのモブキャラではなかった。そして、『響け!ユーフォニアム』においては、登場するほとんどすべてのキャラクタについて同じことが言えるのである。


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『響け!』第8話は、傑作の分岐点となった。
高坂麗奈が叫び、体現する「特別」にすべてを持っていかれそうになるが、8話には「特別」ではないすべての人生への讃歌がある。リボン先輩こと吉川優子は、なにかの成り行きで中川夏紀とどうやらそれなりに和解している。これまで「嫌な先輩その1」としての役割が目についた吉川優子にも、やはり彼女の人生があるのだ。加藤葉月塚本秀一は、主人公が放棄している恋愛セクションを代替するためにいるのではなく、彼らの人生を懸命に生きている。チューバ2年の後藤卓也と長瀬梨子のカップルにもまた、彼らの恋愛がたしかにある。おそらく初めての大きなデートに違いないお祭りで、彼女が浴衣で登場することの瑞々しさ。たぶんこの日初めて2人は手をつなぐのだが、そんなことは、本編をすすむ山上の高坂麗奈黄前久美子にはまるで関わりがない。作品のメインストーリィはあくまでも高坂麗奈の「告白」だが、お祭りを楽しむ多くの登場人物たちにとっては、そちらの方こそまるで関わりがない。それぞれに人生を生きるとは、そういうことである。

付き合い始めたばかりの彼女がデートに浴衣で登場することは、実際の私たちの人生でもふつうに発生する(そんなことはありえないと断言する人は多いだろうけれど)。犬猿の仲だった同級生と成り行きでいっしょにお祭りを回るうちになんとなく打ち解けてしまうことも、私たちの人生でふつうに発生する。しかし、雪女に魂を奪われることは、私たちの人生ではあまり発生しない。ふつうには発生しない圧倒的なできごとが、美しさによる説得力を伴って描かれるとき、作品は傑作になる。
あの8話は、「特別」を描くのと同時に、ふつうの人生の豊かさや瑞々しさもたしかに描いていたからこそ、素晴らしいものとなった。


高坂麗奈が言う「特別」は、『世界に一つだけの花』で歌われた「もともと特別な Only one 」のようなぬるい意味ではない。ほんとうの意味での、カギカッコ付の「特別」な存在になりたいのだと高坂麗奈は静かに叫んでいる。しかし、実際には、私たちはその意味での「特別」にはなれない。なぜなら、私たちはもともと特別だから。努力して才能を磨いて必死に手を伸ばしても、それでも「特別」にはなれず、なれるのはカギカッコなしの特別である。
「特別」とは、『魔法少女まどか☆マギカ』の鹿目まどかの結末のような、あるいは『輪るピングドラム』の高倉冠葉と高倉晶馬の結末のような存在である。現実の人生を生きている私たちはけっして「特別」にはならない。高坂麗奈も「特別」にはなれない。
けれど、彼女も、私たちと同じように、「もともと特別な」存在であることに磨きをかけ続けようとすることはできるし、彼女はきっと特別になろうともがき続けるだろう。その闘いは、きっと「特別」にはなれない私たち視聴者への応援歌でもある。

*1:画像はYoutubeのキャプチャ。 http://anime-eupho.com/story/08/