私たちには身体がある――細馬宏通『介護するからだ』

『介護するからだ』は、とてもおもしろい本だ。介護や医療に関わる人だけでなく、多くの人に読まれてほしいと思う。
この文章で言いたいことは、これだけだ。この先の文章は、長い蛇足ということになる。


ブログを書くことから、ずいぶん離れてしまった。ツイッターには常駐していて、ときどきいろいろと書いているが、長い話はほとんどしない。時事ネタへのツッコミもあまりやらなくなった。
これには理由がある。「それをわたしが言う必要はあるか?」と考えてしまうこと。いまや誰もが(本当に誰もが)ネット上で発言をしている。わたしが考えるようなことは、わたし以外の何万という人も考える。そして何十人かがそれを言語化してネットに投稿する。わたしが登場する必要は、あるだろうか?
10年前はそうではなかったと思う。ネット上でまとまった発言をしている人の数はもっと少なかった。この10年で日本人の数がきゅうに増えたわけではない。ネットで書く人が増えたのだ。かつて、わたしが「わたしに似た人たちの代弁者」になりえた(そういう幻想を抱けた)時期があった。いまはそうではない。


『介護するからだ』の著者である細馬宏通さんのことを、わたしは『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』の著者であり、『今日の「あまちゃん」から』の著者であり、映画『マッドマックス』の音韻に注目した人だと認識していた。「映像作品の分析をする人」だと思っていた。

今日の「あまちゃん」から

今日の「あまちゃん」から

だから、医学書院の「シリーズ ケアをひらく」から本が出ると知ったときには驚いた。介護と映画はぜんぜん関係ないだろう、と。
本書を読むと、実はちゃんと関係があるのだとすぐにわかる。細馬さんは認知症高齢者グループホームにビデオカメラを携えて訪れ、介護する人や介護される人のようすを撮影する。そのビデオを「一コマ一コマ」見返すことで、なにげなく行われている行為を分析し、そこに繊細な機微があることに気付いたりしている。本の帯には「目利きの人間行動学者」と紹介されているが、細馬さんが人間の行動をよーく見てきたからこそ、この本ができたのであり、また以前の本もできたのだなあと思う。


私たちのほとんどは、おそらく、介護したり介護されたりすることになる。介護はまったく他人事ではない。
しかしながら、いまのわたしは、「介護について考えることは重要なことだ」とは思っていない。わたしにとっては、それはまだ現実になっていないことだから。顕在化していない問題を熟考できる器用さを、わたしは持っていない。
けれど、わたしにとってすでに現実になっていることがある。
身体がある、ということだ。身体を動かしながら生きている、ということだ。これは現実である。
たとえば、狭い道を向こうからも人が歩いてくる。すれ違おうとして、なぜか同じ方向に避けてしまう。健康であっても、身体コミュニケーションは決して簡単なことではない。
それなら、介護の現場を観察することから得られる知見はあるに違いない。健康であるよりも制限されたモデルになっているわけだから。細馬さんがそう考えているかどうかはわからないが、わたしはそう思う。
私たちには身体がある。私たちは身体を通して生きている。当たり前すぎて忘れていたことを、本書によって思い出す。

人生で起こることは統計的に予測できるのに、「わたしの人生に起こること」を正確に予期することはできない。わたしは介護することもされることもなく死ぬかもしれない。
そんなことを考えている人は、たぶん何万人もいるだろう。でもその人たちのなかに、本書を読んだ人は何人いただろうか。おもしろく読んだ人は何人いるだろうか。介護にも医療にも書評にも縁のない誰かは、わたしのほかに本当にいるんだろうか。ふと、そんなことを思って、こんな文章をブログに書く。