もう死んでしまった友だちへ

これは個人的な話だし、このブログは私の個人的な知人も何人か読んでいて、彼らにも関わりのある話だから、ここに書くのはやめよう、でも文章としていまの気持ちを書きとめておきたい、ということを考えて、はてな匿名ダイアリーに短い文章を書いた。文章を書いてから少し時間を置いて落ち着いて、まあ公開してもよいだろうと思えたので、ここに公開する。

今年の春に、ぼくの友達は死んだ。まだ若かった。彼とは大学のサークルで出会い、特別に仲良くなるというわけでもなく普通に友達になった。ぼくは大学を卒業して就職し、彼は大学を留年し、休学して、実家に帰った。

ぼくも精神的に強い人間ではないけれど、彼はとても弱い人だった。「引きこもり」なんてレッテルは貼りたくない。弱い人だったのだ。ぼくは彼のその弱さと、ときおり見せるとてつもない強さに惹かれていた。詳しいことは知らないが、彼は精神科に通院していたし、睡眠導入財や抗うつ剤を服用していた。

彼のブログには、死への憧れと、生への執着と、ときどきに読んだ本の簡単な感想と、実家で飼っている猫の様子がつづられていた。ぼくは彼のブログを読んでは、まだ彼が世界に接続してきていることに安堵したりしていた。もしかしたら、自分と比較していたのかもしれない。

今年の春に、彼は死んだ。まだ若かった。当時のサークルの部長から連絡が来たとき、ぼくたちは動揺した。驚き、悲しんだ。

申し訳ないことだけど、ぼくたちは彼が自殺したのだと思った。たびたび死への憧れをほのめかす彼の言葉は、彼と自殺という行為を結び付けていた。実際は、事故だったそうだけれど。

ぼくはときどき、つらいことがあったときに、彼のことを思い出す。とても弱い人だったけれど、死にたいと書いていたことも何度かあったけれど、それでも必死で生きていた。

彼のブログは、まだ広大なインターネットの片隅に残っている。ぼくはつらいことがあったときに、そのブログを読み返す。俺は死なない。まだ俺は死ぬわけには行かない。彼の分まで生きてやる。そんなことを思ったりする。

彼がまだ生きていたらだとか、そんな仮定は無意味だ。彼はもういない。ぼくは生きている。その対比があるおかげで、ぼくは明日も生きていられるような気がする。だから、生きていてくれてありがとう、死んでしまってありがとう。ぼくはきみのために生きるよ。

友よ、死んでくれてありがとう

設定の一部はフィクションになっているが、知っている人が読めば誰のことだか分かるだろう。
はてなブックマークに、『なんかその友達を物語としてしか見てないんじゃないかと逆に悲しくなる文章』というコメントがあって、ああなるほどなあと思った。その通りなのだと思う。その「物語」はあまりに唐突だったので、連絡があった晩はひどく泣いたし、いまもときどき思い出しては悲しくなったりする。
「彼」がいなくなる少し前に、私は「彼」と、仕事の話を少しした。「彼」は働きたいと望んでいた。「彼」は、私がしている音楽活動をうらやましそうに見ていた。そういうことを、私は忘れないでいたいと思う。

重要なことは、「彼」がもう死んでしまったことではなく、私がまだ生き続けているということだ。
俺はまだ死なない。ぼくはきみのために生きるよ。