『新・冒険王』、繰り返される演劇のことば

六本木シアターにて、平田オリザの『新・冒険王』を観た。
青年団『冒険王』/青年団+第12言語演劇スタジオ『新・冒険王』|公演履歴|公演案内|青年団公式ホームページ

平田オリザ脚本の舞台を観るのは、舞台『幕が上がる』につづいて2回目。
『幕が上がる』は演出家が違うし、役者もずいぶん違うので、単純に比べられるものではない。


日本語と韓国語と英語が飛び交い、字幕も表示される『新・冒険王』は、かなり脳が疲れるものだった。舞台上では複数の会話が同時に交わされている。なまじ英語が聞き取れてしまい、韓国語もなんとなく字幕を頼りに聞き取ろうとしてしまうのだから、疲れないはずがない。会話が1組だけになるときも多いのだが、それはたいてい物語上の重要なシーンであり、耳と目は落ち着いても脳はけっきょく休まらない。


役者たちは極めて自然な演技をしていて、いま観ているのは芝居なのだという感覚がとても薄い。これは平田オリザ演出の特徴らしい(「らしい」というのは、他の演劇作品をほとんど知らないから)。
私たちが普通に話をするとき、相手が話し終わる前に遮りながら話しだすこともあるし、微妙に間がもたなくなることもある。そういうことが自然に再現されている。極めて自然な演技と感じられるのは、おそらく極めて異常な演出によるものなのだろう。


『新・冒険王』は、2002年の、日韓共催サッカーワールドカップ決勝トーナメント1回戦・韓国対イタリアの試合が行われている瞬間の、イスタンブールの安宿の一室が舞台になっている。部屋には数人の日本人と、数人の韓国人が滞在している。別の部屋には在日韓国人もいるし、日本語の得意なアルメニアアメリカ人も登場する。
史実にもとづき、サッカーの試合はイタリアが先制するが、後半終了直前に韓国が同点に追いつく。その様子は、イスタンブールの安宿にも逐一届いているけれど、その部屋にはテレビはない。芝居はサッカーを主軸として展開するというわけでもない。試合展開はたしかに登場人物たちを行動させるけれど、舞台を展開させているのは滞在者たちの複数の会話だ。そこに物語はない。時間とともに積み上がり続けるいくつもの会話だけが、そこにある。


サッカーの会話があり、もつれた恋愛の会話があり、下世話な噂話がある。
象徴的な会話は、負の記憶についてのものだ。
アルメニアアメリカ人が話す、アルメニアの大虐殺の話。それを聞く日本人も韓国人も、誰もその事件を知らない。
韓国の光州でも、軍と民間人との間で大きな衝突があったという話。光州出身の韓国人は、そのときの自分が若すぎて何もできなかったことを悔やむ。
911の話。この作品が2002年6月のイスタンブールを舞台としているのは、アフガニスタン侵攻により、バックパッカーたちが中東を移動しにくい状況が背景にある。
阪神大震災の話。関西出身の女性は、そのときネパールにいて、地震があったことをしばらく知らなかった。


サッカーは続いている。後半43分、韓国が追いつき、延長戦へ。韓国人はもちろん、日本人もなんだか乗せられてしまって、テレビがある場所へと集まっていく。それでも観戦に駆けつけようとしない同室の住人たちに、「歴史的瞬間ですよ!」と非難めいて叫ぶ声がする。


「歴史的瞬間」。
「そのとき、どこにいたか?」ということ。
光州出身の男性は、「そのとき」、そこにいなかったことを悔やんでいる。
関西出身の女性は、「そのとき」、すぐに帰国できなかったことを消化できていない。
舞台『幕が上がる』では「東日本大震災のとき、どこにいたか」という話題が、物語の大きな山場として登場する。 (舞台『幕が上がる』が2015年に演じられた意味について - うしとみ
あのとき、どこにいたか。どこで、それに立ち会ったのか。それはほとんど偶然に決まることなのに、立ち会えなかった体験は後悔につながる。


「歴史的瞬間」に立ち会うことではなく、旅人として世界を眺めることに重きをおく。それがバックパッカーたちの愉しみなのではないか。旅をしない私は、そう想像する。
自分の足で世界をまわり、自分の目で見て、自分の肌で感じることは、自分のタイミングで世界を楽しむということなのではないか。そんな自由を求めているはずなのに、「その瞬間、その場所にいたか」という呪縛から逃れられない。


『新・冒険王』は、長く旅行を続けている日本人が、釜山の海から日本を見てみたいと話すことによって収束していく。英語と韓国語と日本語の入り混じった会話のなかで、後悔を抱えた人物が、ほんのわずかに救われたように見えた。


役者の演技があまりに自然で素晴らしいから、私は作者のことにばかり気が向いたのだろうと思う。
パンフレットに記された平田オリザの言葉を引用する。

この舞台の主題の一つは以下にある。
日本はまだ、アジア唯一の先進国の地位から滑り落ちたことを受け入れられない。
韓国はまだ、先進国の仲間入りをしたことに慣れていない。

正直なところ、私にはこの言葉の意味がさっぱりわからない。さっぱりわからないが、おそらく、それでいいのだと思う。
2時間程度では、人はそんなには変わらない。「歴史的瞬間」もそう簡単に訪れはしない。それでも、さまざまなことの積み重ねは、変化を生む。それがつまり、この作品が映画ではなく、繰り返し上演される演劇であることの意味のひとつなのではないかと思う。同じ脚本を何度も演じる演劇は、「そのとき」を希薄にするのと同時に、「そのとき」を唯一のものにもする。逃れられない「歴史的瞬間」の呪縛から逃れるための手段として、演劇のことばは存在しているのかもしれない。

アイドルとしての栗原はるみ、思想としての家事

生きることは生き続けることであり、生きることは食べることである。すなわち、生きることは食べ続けることである。食事によって、日々の生命活動は成り立っている。だから、食事は重要なのであり、家族の食事をつかさどる「主婦/主夫」の役割は大きい。

小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代 (新潮新書)

小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代 (新潮新書)

阿古真理『小林カツ代栗原はるみ 料理研究家とその時代』は、料理研究家たちに注目して書かれた本だ。あとがきにもあるが、「女性史」として読むことのできる本でもある。
本書が取り上げる「料理研究家」とは、テレビの料理番組やレシピ本などへ、レシピを提供する人たちのことをいう。レシピの提供の受け手は、家庭で料理をつくる主婦である。だから、料理研究家の話をすれば、主婦の歴史の話になるのは自然なことだ。


「主婦は「今日の料理」を何にするか悩み続けている」と著者は指摘する。近代になって「主婦」が成立して以降、女性が外に働きに出ることの是非が繰り返し議論されている。
「家にいるからには、料理に手をかけて妻らしさ母らしさを発揮したい。そんな彼女たちを手助けしたのが、主婦雑誌やテレビの料理番組だった」(p23)。献立に悩むことは、主婦となった女性たちの存在証明でもある。



小林カツ代栗原はるみ』の面白さは、料理研究家を論じたことにより、料理研究家の役割がレシピを提供することではなく、女性の生き方の指針を提供することだと明らかにしたことにある。
著者は「小林カツ代は、アジテーターと言える」と書く(p153)。小林カツ代は、「家事を減らしたい、でも、ちゃんとつくって家族に食べさせたいというアンビバレントな気持ちを抱く主婦に、処方箋を示した」(p89)。
小林カツ代といえば「時短レシピ」の先駆けだ。時短レシピを次々に提供し、スパイスやハーブにこだわるのではなく既成品を堂々と使う。その姿勢は、おそらく、主婦という生き方を模索する人々にとって、ひとつの希望であったのではないか。


もう一人の主役である栗原はるみを、著者は「アイドル」だと分析する。「熱狂的なファンをたくさん持つタレントとしての自覚」をもち、「愛されるための努力」を惜しまない。
栗原はるみのつくる書籍には手づくり感がある。そのスキは、たとえば雑誌『 ku:nel 』の洗練された紙面と比較したときに、庶民的であり、気楽さがあるという。
栗原はるみの代表作『ごちそうさまが、ききたくて。』は単なるレシピ本ではなく、生い立ちを語るエッセイがあり、彼女の自宅や私物を写した写真がある。「これは、栗原のライフスタイルを見せる本なのである」(p140)。洗練されきっていない生活を見せるということは、そこへ向かう努力をも客に見せるということにつながる。それはたしかにアイドルの戦略だ。


アジテーターはたしかに思想を提供するだろうが、アイドルはどうか。カリスマ主婦は、主婦のロールモデルとして成立するのだろうか。


家事の政治学 (岩波現代文庫)

家事の政治学 (岩波現代文庫)

柏木博『家事の政治学』は1995年に出版された本だが、2015年に岩波現代文庫で復刊された。本書は、主にアメリカにおける家政学の歴史と市民の生活史とを、断続的に読み込んでいくものだ。書かれてからの年月を感じさせない面白さがある。本書の背骨にも、家事を考えるということが、生活を、ひいては人生を考えるということになるのだという精神がある。
『家事の政治学』の最終章は、次のように締められる。

労働や貧困、災害や戦争、市場のシステムや過剰な消費、理想の家庭・ユートピア。いまだ解決されない近代の問題を、家庭生活(家事労働)を中心にして思考しようとした家政学の視点はすでにはるか以前に忘れ去られているように思える。(略)わたしたちは、忘れ去られた家政学(家事労働の思想)から多くの可能性を引き出すことができるのではないだろうか。


家庭生活や家事労働から、より広い社会に目を向けることは、あまり簡単ではないだろう。東日本大震災を経験した私たちであっても、個別の生活と社会はすぐには接続されない。家事は家事であり、政治は政治であると考えてしまう。


料理は、炊事は、家事であり労働であった。


小林カツ代栗原はるみ』の終盤では、ケンタロウやコウケンテツなど「男子」料理研究家にも触れている。彼らもまたアイドル的人気をもつ。
アイドルが教える料理は、もはや労働ではない。自分や好きな人のために、自分が好きなときにだけ行えばいいことが現代の炊事であるならば、それは娯楽である。娯楽を教えるのはアイドルでも構わない。
家事が労働であり続けるべきだとは思わないが、たしかに家政学が目指していた視点からは遠く離れていると言えるだろう。



マンガ『高杉さん家のおべんとう』は、炊事と食事によって家族の関係性が発展していく物語だ。

高杉さん家のおべんとう 1

高杉さん家のおべんとう 1

おなじ食事を摂ること、日々の炊事を積み重ねることで、彼らは家族を再認識していく。
8巻・第53話に、こんなセリフがある。定年退職した一人暮らしの女性が話すセリフだ。

私ね最近実家によく帰るの 時間もできたし両親も高齢ですし
帰ってもやることは一人でいる時と変わらないのよ 掃除したりごはんを作ったり なのに不思議なの
私事(ワタクシゴト)が家事(イエゴト)になると何かモヤモヤするのよ
反応が欲しくなるというか

ここには家事の本質がある。私事はあくまでも私事であるが、家事はやはり労働なのだ。労働には対価が支払われなくてはならない。家事の対価は、家族の反応である。



料理研究家は、これからどこへ向かうだろうか。
クックパッドによって、すべての人が料理研究家になれる時代である。レシピの提供だけなら、Googleで検索するほうが効率がいいかもしれない。
それでも料理研究家は活躍を続けるだろう。彼らの仕事は、レシピの提供ではなく、炊事を通した生き方指南にあるからだ。
小林カツ代が起こした革命は、栗原はるみによってさらに日常化された。辰巳芳子は思想家としての役割を担っているし、平野レミは笑いによって安堵と自信を提供している。
次に登場する料理研究家は、どんな人だろう。あるいは、家事や炊事を描いたマンガは、次はどんなものが登場してくるだろう。それに注目することで、私たちの社会と家族のありかたが見えてくるはずだ。

舞台『幕が上がる』が2015年に演じられた意味について

幸運にも、舞台『幕が上がる』を観劇する機会を得た。
舞台「幕が上がる」 | PARCO STAGE
平田オリザ原作・脚本、ももいろクローバーZ主演の舞台だ。とてもチケットが取れるとは思っていなかったが、巡りあわせというのはあるものだと思う。


作品について語るとき、作品内容に触れないことは難しい。私はいま、作品内容について語りたいと考えている。このあとの文章には、重要なネタバレを含むことになる。観劇予定の方は、読むべきではない。いっさいの情報がない方が、より楽しむことができるはずだ。


重要なネタバレを含まない記述は、ここまで。
これ以降は、これから舞台を観る予定のある方は、読むことを薦めない。重ねて注意しておく。


『幕が上がる』という作品は、平田オリザの小説から始まっている。高校の演劇部を描いた、青春小説だ。登場人物たちの描写は、まるでアテ書きだったかのように、ももクロのメンバーたちを思い浮かべることができる。とはいっても、そもそもは小説として独立したものであった。
映画『幕が上がる』は、ももクロを見事に活用した作品になっている。映画の感想は、以前書いた。
『幕が上がる』は『桐島』を超えたか 〈舞台装置〉としてのももクロ - うしとみ
この映画は、青春映画でもあり、商業的アイドル映画でもある。ももクロファンという立場から離れたとしても良作だと考えているし、その一方でどうしても駄作的な部分があった。

「アイドルグループとしての物語」を、この映画にいっさい重ねないというのは難しい。
富士ケ丘高校演劇部は、同時に、ももいろクローバーZでもある。 ...(略)... 観客はいま観ているものがアイドル映画であり、ももクロがそこに映っているのだと認識させられる。

『幕が上がる』は『桐島』を超えたか 〈舞台装置〉としてのももクロ - うしとみ

さて、では、舞台『幕が上がる』は何であるか。どのような文脈でこの作品を語るべきなのか。
いくつかの補助線を引くことが可能だろう。平田オリザの舞台作品として見るのか、アイドル演劇の文脈で見るのか、本広克行の演出としての面に注目するべきなのか。どういう切り口であっても、私には前提知識が足りない。ももクロのファンとしての切り口で語るのは、いまはあまり面白くない。
私は、舞台『幕が上がる』を、2015年に展開されたフィクションのひとつとして、語ってみようと思う。


この舞台作品には、小説にも映画にもなかった、きわめて重要な追加要素がある。それは、東日本大震災だ。
主要登場人物の「中西さん」は、原作の時点から、転校生という役回りである。高校演劇の強豪校から転校してきた、すごい人。強豪校にいたからこそ生じた事件ゆえに学校に行きにくくなってしまい、主人公たちの高校へ転入することになる。そこまでが、小説や映画の設定だった。
舞台では、「中西さん」が岩手の出身であるという設定が追加された。2011年当時、中学生だった彼女は、岩手に住んでいたのだという。


『幕が上がる』という作品は、演劇部を描いたものであり、この演劇部は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を舞台として演じる。『銀河鉄道の夜』を稽古し、作品を深めていく過程そのものが、『幕が上がる』という作品の骨格である。
銀河鉄道の夜』とは、どのような物語だろうか。私はこれまで漠然と、童話でありファンタジーであるというような認識でいた。しかし、この物語はまた「友人がとつぜん死んでしまう」物語であり、「死を受け入れていく」物語である。
現代の高校生にとって、死は、必ずしも身近なものではない。原作小説や映画版において、「死の受容」というテーマがほとんどまったく掘り下げられていなかったのは、それが身近ではないことの反映であったようにも思う。


「中西さん」が岩手出身であることを、登場人物たちは偶然に知る。
岩手県なら、宮沢賢治の故郷でもある。そして2011年に深刻な被災をした地域でもある。なるほど、そう来たか、すごいな。観劇しながら私はそんなことを思っていた。
平田オリザがすごかったのは、その先だった。
「中西さん」は独白する。泣きながら独白する。その独白は、まさに、盛岡で被災した中学生のものだった。


私は、あのとき、茨城県つくば市にいた。だから、誤解を恐れながらも、言ってしまえば、盛岡で被災した人の気持ちが、たぶん、少し、わかる。
私は、あのときツイッターにこんなことを書いた。

明るくなってきました。それだけでも何か落ち着きます。つくば市の被害は相対的にみればたいしたことないかもしれない。でも、十分、キツい状況だと思います。不安になっていいはずです。その上で、強くありたいですね。

https://twitter.com/tsukuba_tw/status/46312212209475584

3月12日の午前5時51分のツイートだ。いま読み返してみると、だいぶ強がっていたんだなあと思う。


こんなことも書いた。

そうして、私は震災を忘れていった。積極的に忘れようとしていった。いつまでも続く原発関連ニュースは、なるべく真剣には見ないようにした。その習慣は今も続いている。私はメンタルが強くないのだ。私は震災を忘れようとしているし、実際に忘れつつあった。忘れることを恐れてもいるし、忘れることを申し訳ないとも思っている。そういう人はたぶん少なくないだろう。

『あまちゃん』震災編によせて - うしとみ

この気持ちも、まだあまり変わっていない。私はいまでも、あの体験をできれば忘れておきたいと思っている。津波の映像も見ないままでいる。

あのとき、盛岡で被災した中学生は、そのあと転校した静岡の学校で、いったいどんなふうに生きただろう。周りの新しい同級生たちは、きっと、あっという間に震災を忘れていっている。悪気なく、忘れていっている。そんななかで、それでも4年が経って、巡りあわせで『銀河鉄道の夜』を演じることになった高校生は、いったいどんなふうに立ち向かえるのだろう。


この脚本を書いた平田オリザは、いったい何を考えて、東日本大震災のことを追加してきたのか。
あの日以降、現代を描く作家たちは、震災によってどうしても縛られているのに違いない。前出のNHKドラマ『あまちゃん』は見事に描いた。
この舞台作品に震災を取り入れないという選択もできたはずだ。そんなことをしなくても、観客を泣かせることは、きっとできるだろう。むしろ、取ってつけたような後付け設定として取り入れることで、批判されるかもしれない。
2015年の現在、いまここにある青春という題材を描くとき、日本を代表する劇作家は、あの震災を巧みに描いた。これはとても意味のあることだと私は思う。


いま、私は、私たちは、あの頃の予想以上に、ものすごい勢いで、震災を忘れていっている。まだたった4年しか経っていないのに、地震のことも、津波のことも、原発事故のことも、ずいぶんと忘れてしまっている。
その忘却は、決して間違ったものではないと思うし、不誠実なことだと言い切るべきでもないと思う。けれど、忘れ去ってしまうのは、まだあまりにも早い。


私は、創作の力を信じ続けようと思う。
そこに描かれたり描かれなかったりすることには、凄まじい力があるのだと、ちゃんと信じていようと思う。
それが、いまだ生き延び続けてしまっている私たちの、誠意のありかたなのではないかと思う。
そして、私があらためてそう認識したということが、この2015年に舞台『幕が上がる』が上演されたことの、ひとつの意味であるのだと思う。

黒塗りメイク事件に思う、ももクロとモノノフの共犯状況について

ももいろクローバーZの熱心なファンである私にとっては残念な話題がある。
人種差別と批判された「ももクロ」の「黒塗りメイク」 米国の学生はどう反応したか? - 弁護士ドットコム
上掲の弁護士ドットコムの記事には、ももクロの写真自体は載っていないが、少し検索すればすぐに見つかる。過剰反応ではないかとも思ったのだが、写真を見るとわりと弁解できない黒塗り具合だったので頭を抱えた。

まとめよう、あつまろう - Togetter
この togetter で丁寧に論じられているが、正直に言って、けっこう難しい。

「顔の黒塗りが差別」というのが“グローバルスタンダードな考えだから”ノるのではなく、“現行のアフロ文化圏と日本文化圏が付き合う上では、今は他の人種差別の歴史に学びつつノる方が即効性があり望ましい”からノる、というような回路であってほしい

https://twitter.com/tricken/status/574960760146649088

この事件を簡単に見てしまうと、「黒塗りメイクにすると黒人差別にあたると言って激怒する人々がいるようだ、そんなつもりで黒塗りにするわけじゃないんだけど、厄介だからおとなしく自粛しておこう」という教訓しか得られないかもしれない。


ももクロは、わりと気軽に仮装をする。先日の「徹子の部屋」には、メンバー全員がタマネギ頭で出演している。昨年レディ・ガガと共演したときには、メンバーのひとりは顔を金色に塗った。今回の黒塗りメイクも、まったく自然な流れとして行っただろうと思う。
実は2012年にも、ももクロのメンバーのひとりは黒塗りメイクをしてライブで歌っている。

有安杏果のソロでは、ゲストの在日ファンクが生演奏で参加した。有安はアフロヘアに墨塗りというファンキーな出で立ちで、浜野謙太書き下ろしのファンクナンバー「教育」をパワフルに歌い上げた

しげるもデュークも指原も!ももクロ横アリ初日てんこ盛り - 音楽ナタリー

当時のことを私は知らないが、おそらく問題にはならなかったのだろう。当時はそこまでトップアイドルというわけでもなかっただろうし、テレビで紹介されたわけでもない。
今回の「ミュージックフェア」では、「トップアイドルが」「地上波テレビで」黒塗りメイクをしたところが特に問題を大きくしたのだと思う。
いまや、ももクロはトップアイドルである。相応の振る舞いが求められるということだと思う。


私があまり好きではないももクロのネタに、メンバーのひとりの構音障害を笑うというものがある。「滑舌が悪い」と言って笑うもので、内輪ネタ的には楽しめるものではある。ネタ楽曲の歌詞にまでなっている(「滑舌悪いの生まれつき ソロパートを削んなよ!」と本人が歌うのだが、なんなんだこの自己言及は。こういうところがももクロの(というかアイドルの)魅力のひとつだろう。)。
しかし、私自身も軽い構音障害があり、shi と chi と ki の発音があまりうまく使い分けられないのだが、その立場からすると、この滑舌いじりは不愉快なパートでもある。おそらく、私以外にも、滑舌ネタで微妙な気持ちになるモノノフは少なからずいるだろう(モノノフとは、ももクロの熱心なファンのことだ)。


実はもうひとつ、ももクロにとって悪い話題がある。近隣アジア諸国に対して排斥的な思想をもつ人物が、自身の著書をももクロのメンバーに渡し、その書籍を持たせた状態で写真を撮り、SNSにアップロードした、というものだ。まどろっこしい説明をしたのは、当該記事等にリンクを張る気がないためだ。
中国や韓国に対して、排斥的な思想を持つこと自体についてを否定することは、私はしない。そういう考え方の人もいるだろう、それはそれでいいだろうと思う。仲良くなりたくはないが。
ただ、そういう思想をアイドルたちが持っているかのように見えてしまう状況をつくることは、そのアイドルたちの評価にとっても悪いものであるし、もっと広い視界で考えても、かなり悪いものであるだろう。


ももクロはもはやトップアイドルであるが、彼女たちはまだ20歳前後の若者であるし、学校の勉強はそんなにしてきたわけでもない。難しいことはよくわからないだろう。難しいことがよくわからないからと言いながら、顔を黒く塗ったり、いじめを増長させるようなパフォーマンスをしたりするのであれば、それは周りが止める必要がある。PTAみたいで馬鹿馬鹿しいとも思うが、そういう役目の装置は必要だろう。


アイドルは、ファンとの共犯関係によって輝いている。ファンがアイドルを応援するから、アイドルは存在できる。
ももクロはトップアイドルになってしまった。おそらく、以前と同じような共犯状況では、さまざまな齟齬が生じることになるだろう。
いちファンとして、彼女たちの前途が素晴らしいものであってほしい。そのためにも、ときには面倒な話もしていきたいと思う。


ところで『青春賦』のMVが完全に泣かせにきていて素晴らしいです。

『幕が上がる』は『桐島』を超えたか 〈舞台装置〉としてのももクロ

映画『幕が上がる』を観た。
いい映画だった。かなりいい映画だと思う。

映画『幕が上がる』公式サイト


青春映画である。田舎の高校の弱小演劇部が、全国大会を目指す。新任のすごい先生と、強豪校からの転校生。挫折と成長と事件を通して主人公たちが成長していく、言ってしまえば、よくある話。


この映画の主演は、ももいろクローバーZの5人だ。彼女たちはアイドルであり、女優ではない。いや、なかったと言うべきか。女優ではなかったはずだが、映画ではまったく自然な演技を披露している。
アイドルが出演する作品を観るときは、それなりの覚悟がいる。きっと大根なんだろうな、棒読みなんだろうな、キラキラ顔のアップばかり映るんだろうな、そういうものを受け入れる覚悟がいる。『幕が上がる』において、それらは杞憂だった。
ももクロメンバーたちの演技が、特別に優れているとまでは言わないが、黒木華ムロツヨシと並んで残念な気持ちになるようなことはない。「普通にうまい」という表現がちょうどいいだろうか。平田オリザの影響が相当強いのだろうなと感じる演技だ。
演技以外の点でも、アイドル主演ということを意識させない映画になっている。やたらと笑顔ばかりが映るようなことはなく、むしろ、意地の悪い表情や、生気のない表情が印象的なシーンも多い。ももクロは5人グループだが、事前知識なしに映画を観たとしたら、誰と誰がももクロなのかエンドロールまでわからないかもしれない。「少なくとも主役の部長はももクロだろう、このショートカットもそうかな?この狂言回しっぽいのは?この転校生は違うかもな、この後輩ってそうだったのか」みたいな。
そんなわけで、「アイドルが主演してる映画ね、はいはい、そういうのはいいや」と捨て置くのは、ちょっと違うよ、ということを強調しておきたい。


映画を観ていて何度も思い出したのは、『桐島、部活やめるってよ』だ。
高城れにが廊下を走り回るシーンや、玉井詩織有安杏果が屋上で大道具をつくるシーン。東京の小劇場からの帰り道で、2年生が佐々木彩夏の行動についてコメントするシーン。ちょっとした場面から、ときおり『桐島』っぽさを感じた。
ひとつのスクリーンのなかで、複数の物語を、まったく同時に進めることは、難しい。けれど現実には、ひとつの空間のなかに複数の集団があれば、併行してそれぞれの物語が進行している。『桐島』はそれを、序盤のカットバックの多用などから、終盤の屋上での大集合とその後を劇的に描き、個人それぞれの物語の存在をあらためて提示した。『桐島』は、「みんながひとつのことを目指す青春映画なんて虚構だ」と言ってみせたのだった。


対して、『幕が上がる』は、青春映画をアイドル映画と併走させるという方法で、『桐島』へのアンサーを提示してみせたのではないか。
主演のももクロは、現実世界において、まぎれもなく青春ドラマの主人公だ。手弁当の営業活動から始まり、次第にファンが増えていき、紅白歌合戦などの大舞台に立ち、いまも活躍のまっただ中にいる。主要メンバーの脱退もあった。そんな「アイドルグループとしての物語」を、この映画にいっさい重ねないというのは難しい。
富士ケ丘高校演劇部は、同時に、ももいろクローバーZでもある。いや、同時にではないかもしれない。映画のなかでは、彼女たちは役者であり、アイドルではない。けれど、たびたびBGMとして流れるももクロの楽曲や、ももクロと関わりの深い人物のカメオ出演ももクロのテーマカラー(赤、黄、紫、緑、ピンク)を連想させる小道具などにより、観客はいま観ているものがアイドル映画であり、ももクロがそこに映っているのだと認識させられる。
つまり、『幕が上がる』という映画において、ももクロは役者でありながら、舞台装置でもあるのだ。
現実世界において、圧倒的に青春ドラマの主人公をやってみせているアイドルたちが、青春映画の王道を演じている。しかも、その演技はまったく自然である。これは、かなり面白い現象だと思う。


そんなわけで、『幕が上がる』は、ある意味では『桐島』を超えたかもしれない。
『幕が上がる』には、『5つ数えれば君の夢』のような鋭利な美的感動はない。『桐島』の示したような批評性も、ないように思う。平田オリザの原作小説にあった面白さは、ずいぶん取捨選択がなされている。

ももクロのファンとして、アイドル映画好きとして、原作小説のファンとして、いろいろとまとまらない気持ちはある。少なからず、物足りなさはある。でもそれは、100点満点だけを目指すことの狭量だろう。

幕が上がる (講談社文庫)

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5つ数えれば君の夢 [Blu-ray]

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関連:映画『5つ数えれば君の夢』が素晴らしいという話 - うしとみ

自炊スターターキット、あるいは一人暮らしで買わなくてもいいものリスト

人は誰でも食べずには生きていけないが、何をどのように食べるかについては様々な選択肢がある。健康で文化的な生活を維持するためには、食事の用意を自分で行うことが重要だ。しかし、日々の炊事を運用することは予想以上に難しい。

さあ自炊を始めよう、と思い立ったなら、様々な調理器具を購入する必要がある。しかし、自炊がちゃんと続くのかどうか。せっかく買った高価な器具が、日の目を見なくなるのは悲しい。
自炊入門者が最初に買うべきもの、買わなくてもいいものを、下記にリストで示す。

  • 最初から必須のもの
    • 冷蔵庫
    • 電子レンジ
    • 包丁
    • ザル
    • フライパン(大きく深いもの)
    • トング
    • おたま
    • 洗剤、スポンジ
    • ペーパータオル
    • ラップ
  • 最初は必須でないもの
    • まな板
    • 計量カップ、計量スプーン
    • 菜箸、フライ返し
    • 炊飯器
    • ボウル
    • ピーラー
  • 状況によるもの
    • やかん
    • 電気ポット
    • 食器

必須調理器具

・冷蔵庫
冷蔵庫はほしい。コンビニの弁当やパンやカップ麺での生活であれば、冷蔵庫が不要ということもあるだろう。そんな生活では、健康で文化的な生活は実現されない。牛乳やヨーグルトなどを買い置きすることもできない。冷凍庫が十分に大きいものを用意したい。


・電子レンジ
電子レンジもほしい。立派なものである必要はないが、オーブン機能は付いているといい。電子レンジがあれば、冷凍保存したものの解凍はもちろんのこと、根菜類の下茹での代わりなど、簡単な調理にもけっこう使える。


・包丁
包丁の代わりになるものはある。キッチンばさみや、スライサーなどがあればいい。といっても自炊入門者には包丁のほうがいい。100円ショップでも売られているが、多少は値段のするものを買ったほうがよいだろう。錆びにくい材質のものを選ぶこと。


・水切りザル
ボウルの代用には、皿や鍋を使うことができる。ザルの代用はない。100円ショップのもので構わないので、大きめのザルを買おう。ザルがないと、茹でたスパゲッティの水切りが面倒だし、モヤシを洗うのも面倒だ。後片付けのときの食器の水切りにも使えるだろう。


・大きめのフライパン
大は小を兼ねる。フライパンは大きめで深さのあるものを1つ用意する。スパゲッティが茹でられるくらいのサイズを選ぶ。フタ付きのものがよい。いいものを買ってしまったほうがいいだろう。


・トング
トングを使っていないベテラン主婦もいるだろうが、必須器具である。トングがあればなんでもできる。菜箸にできることは、トングにできる。木べらやゴムベラが担当する作業も、トングでできる。残念ながらスープをすくうことはできないが、麻婆豆腐くらいならトングだけでいける。茹でたスパゲッティの水切りのためにザルを使わなくても、トングがあればほとんど問題ない。全体がステンレス製で先端が樹脂のもの、簡単な操作で閉じられるものがよい。

パール金属 リビンクリップ ナイロンクッキングトング 25.5cm C-285

パール金属 リビンクリップ ナイロンクッキングトング 25.5cm C-285


・おたま
これがないと味噌汁の味噌を溶けない。カレーもすくえない。最初から持っていたほうがいいだろう。100円ショップでも問題ない。


・洗剤、スポンジ
安いものでよい。消耗品であるから、気軽に捨てられる価格のものを選ぶべきだ。


・ペーパータオル、ラップ
ペーパータオルも安いものでよいから、最初から持っていたほうがよい。ふきんの代用だと思って、これで洗った食器も拭けばよい。
ラップは、サランラップクレラップがよい。そもそも安いものなので、変にケチらないほうがよい。

最初は必須でない器具

・まな板
まな板はなくてもなんとかなる。キッチンの作業スペースにサランラップだとか牛乳パックの開いたものだとかを敷けば、それでまな板の代わりになる。とはいっても、あったほうが便利だ。100円ショップでプラスチック製のものを買えばよい。ただし、本格的に炊事をするようになったら、いいまな板を買うのがよい。衛生管理が特に気になる調理器具であるから、むやみに木製のものを選ばないほうがいいかもしれない。
《追記》まな板が必須でないことについて、いくつかコメントをいただいた。やはりまな板は必須だとした方がいいかもしれない。個人的な感覚だが、100円ショップで100円で買ったものであろうと、「使わなかったから捨てる」というのは心が痛む。もし炊事をけっきょくぜんぜんしなくて道具を処分しようかというときには、100円のまな板を捨てるのだって、悔しいし心が痛むだろうと思う。それは包丁だって同じことなのだが、包丁はないと炊事は難しい。だから包丁は「必須」とした。と、こういうモノに対する心情は、一般的とも言い切れないので、やはり「まな板は必須」としておこうかとも思う。


・鍋
深いフライパンがあればたいがいのことはできるが、味噌汁をつくるのには向かない。ゆで卵も鍋のほうがつくりやすい。ボウルの代わりにもなる。まずは小さめの鍋を買う。小さめの鍋と、大きめのフライパンがあれば、数人分の食事を一通り用意するのにも十分だ。


・計量カップ、計量スプーン
調味料で重要なのは、濃度と配合比率である。「酒大さじ2、醤油大さじ1、砂糖大さじ1」とあれば、酒と醤油と砂糖を2:1:1くらいの比率で入れるという意味である。よって、コンビニでプリンを買ったときについてきたプラスチックスプーンを使って調味料を計測しても、ひとまずは問題ない。とはいえ、先人たちの知恵を活かすためには、規格品はいずれ用意する必要があるだろう。


・フライ返し、木べら、ゴムベラ
トングがあればなんでもできるが、トングでホットケーキをひっくり返すのは難しいし、タマネギのみじん切りを炒めるのもやはり難しい。自炊の習慣がつき、調理するなかで「ちょっと不便だな」「こんなときにフライ返しがあったらな」と思うようになってから買えばいいだろう。


・炊飯器
炊飯器でなくても米は炊ける。そもそも、米を炊くことにこだわる必要はない(参考:まず、ご飯より始めよ(生き延びるための自炊入門) - うしとみ)。


・ボウル
食器やフライパンでも代用がきくのだから、最初から買う必要もない。自炊の習慣がついてきてから用意しても、遅くはないだろう。大中小の3サイズあると便利だ。


・ピーラー
自炊入門者のうちは、ピーラーを使う必要があるような野菜を買ってはいけない。したがって、ピーラーは最初は必須ではない。ジャガイモの皮を包丁でむくのは大変だが、それならジャガイモを食べなければいいだけの話である。ニンジンも1本のままのものを買ってはいけない。カット野菜を使えば、包丁もまな板も使わずに野菜炒めが作れる。最初はそれでいいのだ。なお、ジャガイモはラップで包んで数分電子レンジに掛けると、ふかしイモになって皮も簡単にむける。

状況によるもの

湯沸かしについては、住環境によるところがある。ガスコンロが2口あれば、やかんで湯を沸かすのもいい。1口しかないのであれば、湯沸かしは電気ポットに託すほうがいいだろう。やかんを使うのであれば、保温性の高い水筒などをあわせて買うのもよい。
食器は、ほんとうに最初のうちは、紙皿と割り箸で済ませるべきだ。レジャー用の紙皿を2種類くらい買っておく。洗い物はとても面倒な作業であるが、衛生上どうしても避けられない。洗い物をしない唯一の方法は、食器を使い捨てにすることだ。これは将来への投資であるから、もったいなくはない。


上記のことは、自炊入門者のためのものである。自炊入門者は、炊事をできるだけ毎日続けていこうとする、最初の段階にいる。下げられるハードルは下げたり外したりしていこう。むやみに高いものは買わない。たくさんのものを揃えない。手間が増えてしまうような選択は避ける。
自炊は、自分が食べたいものを食べ続けるための、食料調達の一戦略である。調理スキル、食材の保管や運用ノウハウといったものを身につけられれば、美味しくて栄養によいものを長期的に摂取できる可能性が高まる。そのためには、まず、始めることであり、続けることが重要である。

まず、ご飯より始めよ(生き延びるための自炊入門)

人は誰でも食べずには生きていけないが、何をどのように食べるかについては様々な選択肢がある。健康で文化的な生活を維持するためには、食事の用意を自分で行うことが重要だ。しかし、日々の炊事を運用することは予想以上に難しい。
自炊をするときに重要なことは、続けることだ。できるだけ毎日のように炊事をすること。これが自炊のコツだ。
初期投資コストの回収、日々の食材調達コストの効率化、各種炊事スキルの向上、といった点が、毎日のように炊事をするべき理由である。もちろん、初心者にはそれこそがもっとも難しい。
できるだけ続けていくためにも、まずは簡単なところから始めよう。

一汁三菜は目指さない

「一汁三菜」という言葉がある。ご飯、汁物、主菜、副菜A、副菜Bで構成された食事であり、定食屋の献立では実現されていることが多い(ご飯、味噌汁、メインのおかず、ちょっとしたサラダ、ちょっとした漬物、といった具合に)。
自炊入門者は、いきなりそんなものを目指してはならない。一汁三菜はいずれ考える目標として、まずは主食から始めよう。ご飯から始めるのだ。

ご飯があればなんとかなる

ここで「ご飯」というのは、米のことである。自炊入門において主食は米であり、パンや麺類ではない。炊事を続けていくという目標を第一に考えたとき、主食は米が基本となる。
日本人は、米を主食にすることに慣れている。この何十年間、ずっとそうしてきているから、参考文献には事欠かない。ほとんどの料理本は、ご飯を主食にする前提で書かれていると言っていいだろう。調達もとても簡単だ。米もご飯もどこにでも売られている。

ご飯を主食とした、手軽に準備できる献立例を3つ示す。

  • ご飯、レトルトカレー、サラダ
    • レトルトカレーを電子レンジで温めている間に、カット野菜のサラダを皿に盛り付け、マヨネーズを少し掛ける。物足りなければ、ゆで卵でもあると嬉しい。
  • ご飯、野菜炒め、インスタント味噌汁、鯖缶
    • 野菜炒め用のカット野菜を買ってきて、フライパンで炒める。サラダ油と塩コショウでも十分だし、醤油やソースで味付けしてもいい。インスタントでいいので味噌汁は用意したい。鯖缶の代わりに、コンビニのフライドチキンでもいい。
  • ご飯、アジの干物、インスタント豚汁、冷奴
    • アジの開きを買ってきて、フライパンで焼く。クッキングシートを敷いておくと片付けが簡単に済む。味噌汁はインスタントでいい。冷奴の代わりに、納豆でもいいし、キムチでもいい。

自炊入門者にとって、「中食」は重要な武器である。中食は、「ご飯のおかず」を想定して売られていることが多い。カップラーメンのお供にしてもいいが、それでは塩分過多だ。アジの干物と食パンはたぶん合わない。ご飯を用意することが重要なのだ。

「サトウのごはん」を使おう

とにかく、自宅にご飯がある状況を途切れさせないことだ。
炊飯器、冷蔵庫、電子レンジの3点がすべてあるのなら、炊飯をするのもいいが、これはあとでいい。入門者のうちは、レトルトパックを買おう。いわゆる「サトウのごはん」だが、様々なメーカーから様々なランクの商品が販売されている。

とりあえず、20食分くらいまとめて買ってしまう。残り5食くらいになったら追加で買う。
炊事を毎日続けることが重要だと認識したとしても、自炊を始めたばかりの時期には難しい。毎日ご飯を炊飯器で炊くのは、それだけでとても大変なことだ。続けるのを邪魔するハードルはどんどん下げていく。レトルトパックご飯は腐らない。備蓄がきく。備蓄がきくものを主食にすることで、余裕が生まれる。
炊飯器の炊きたてご飯はたしかに美味しいが、準備も片付けもそれなりに面倒である。炊事する気力がなければ、外食にしてもいい。やる気と時間がたっぷりある日なら、手の掛かるものに挑戦するのもいい。どちらにもいけるために、ひとまず基本の主食はレトルトパックご飯に固定しておく。

買ってきて、作って、食べて、片付けるまでが自炊

自炊はたくさんの作業に分解できる。どうしても「調理する」部分に注目してしまうが、実際のところ「食材を調達する」「食材を適切に保管する」「調理器具を片付ける」「皿を洗う」「生ゴミを捨てる」など、自炊特有の作業はたくさんあり、そのどれもが初心者には難しい。
レトルトパックご飯のいいところは、いま挙げた5つすべてが簡単なことだ。Amazonでもコンビニでもスーパーでも買えるし、常温で保管できる。洗い物は発生しない。空き容器を捨てるのも気軽だ。
自炊するということは、自宅での生活の一部を、自炊に充てるということである。入門者のうちは、自炊生活とはどんなものなのか、ということを覚える段階だ。この段階は、省略できる部分は省略する。その分、お金は多少余分に掛かるかもしれない。それは投資である。

米を炊く場合の注意点

続ける自炊生活という観点での、炊飯の注意点を2つ挙げる。
・多めに炊いて冷凍する
時間の余裕があるときに、多めに炊く。そして冷凍する。冷凍用容器は、スーパーやドラッグストアなどでも買える。

キチントさん ごはん冷凍保存容器 一膳分 250ml 5個入り

キチントさん ごはん冷凍保存容器 一膳分 250ml 5個入り

食事のたびに炊飯するのは面倒だし、時間も掛かる。冷凍用容器も洗わなければならないから、洗い物が増えるというデメリットはある。
・無洗米を使う
炊事において、すべての要素を最高にすることはできないと考えるべきだ。無洗米を選ぶことで、失ってしまう要素はあるだろう。多少は美味しさは損なわれるかもしれないし、値段も少し張るかもしれない。それでも、無洗米以外の選択肢はない。
もし、炊飯器を所有していない状況からスタートするのであれば、炊飯器ではなく鍋やフライパンでの炊飯を検討するのもよい。基本はレトルトパックご飯とし、余裕がある日はその日の分だけ鍋で炊く。炊飯器は、必須調理器具ではない。

次の選択肢としての冷凍うどん

保存性の高い主食としては、乾麺がある。スパゲッティ、そうめん、ラーメン(袋麺)が、調達しやすく保管も簡単でいいだろう。
スパゲッティは、レトルトのソースが多種売られているので便利だ。入門者を卒業したら、使い余った野菜と備蓄のベーコンなんかを使ってオリーブオイルスパゲッティを作ることもできるだろう。ただ、スパゲッティというのは副菜やスープが付けにくい料理だ。ご飯を中心にするときほどには、栄養バランスを組み立てにくいかもしれない。

レトルトパックご飯の次のステップとして、冷凍うどんを提案する。
うどんは、具のバリエーションがきく料理だ。主食とスープとメインのおかずの3つを兼ねているから、追加でひとつ副菜を添えられるとさらによい。
冷凍うどんの利点は、もちろん保存性である。冷凍庫に3食分ほど常備しておけば、疲れて帰ってきた日でもコンビニ弁当を買わなくていい。
小鍋に湯を沸かし、冷凍うどんを入れてしばらく茹で、めんつゆで味付けする。具材は、卵、乾燥ワカメ、油揚げ、冷凍のほうれん草、市販のコロッケなど。野菜があれば、適当に入れてもまず失敗はしない。もっと簡単に、電子レンジで温めた冷凍うどんにポン酢と七味唐辛子を掛けるのでも十分だ。これなら鍋も使わないで済む。
『終電ごはん』という料理本では、冷凍うどんレシピにかなりのページを割いている。

終電ごはん

終電ごはん

冷凍うどんは、味のごまかしが効きやすいという利点もある。日本人の味覚は、冷凍ご飯やレトルトパックご飯に対しては厳しい評価をしてしまうかもしれない。うどんに対しては、味のこだわりが少ないのではないか。

自炊生活に慣れて、食材調達サイクルが安定してきたら、生麺タイプのうどんも使っていこう。こちらの方が調達単価が下がる。

ご飯より始めよ

自炊をするときに重要なことは、続けることだ。できるだけ毎日のように炊事をすること。これが自炊のコツだ。
「食事」というプロジェクトにおいて一番重要な目標は、「食べるものが用意できる」ということだ。外食でも中食でもなんでも、「食べるものがある」ことが重要であり、味や費用や栄養はそのあとの問題になる。

食事の中心には、ご飯がある。ご飯を確実に調達し続けることこそが、自炊入門の第一歩である。