外注に出す能力・自前で調達する能力

数字を覚えることが苦手だ。身長・体重・血圧・郵便番号・50メートル走の速さ・車のナンバ・指輪の号数……、ほとんどの数字を忘れてしまう。子どものころからそうだった。身長や立ち幅跳びの記録なんか、計測した次の休み時間くらいまで覚えていればいいものであって、数ヵ月後の計測のときまで覚えていて前回と比較するなんて、どこにメリットがあるんだろうなんて思っていた。
キャッシュカードなどの暗証番号やパスワードは記憶しておく必要があるけれど、ノートに書き留めておけば済むようなことで、わざわざ脳のリソースを消費するのはもったいない。


自前で調達する必要のない能力は、「外注」に出してしまえばよいと思う。
ケータイの乗り換え検索や、GPSによる地図案内も、事前に時刻表を調べたり、地図を読んでメモしたりする手間を外注しているのに似ている。電子手帳を持ち歩いて頻繁に辞書を引いたり、ケータイのブックマークにGoogleを登録しておくのも、記憶と理解の「外注」だろう。


私は大学生のころ、英語は外注すればいいものだと考えていた。外国人と商談するような機会があっても、通訳を頼めばいい。海外の文献なんかはエキサイト翻訳でも使って読めばいい。そう考えていたので、英語の授業を受けなくなってからは、まったく英語に触れてこなかった。
そして、いま、その選択を後悔している。英語は外注するべきではなかったのだ。英語能力は現代のビジネスの世界で行きようとするならば、自前で用意するべき能力なのだ。


どういう生き方を選ぶかにもよるだろうが、外注すべき能力と、自前で調達するべき能力があるようだ。これは「選択と集中」において、なにを選択しないことにしてはいけないのか、ということでもある。
速記や口述筆記をするわけでなければ、タッチタイピングは自前で解決するべき能力だろう。たとえば、本格的なウェブサイト作成は外注してもよいかもしれないが、画像や動画の簡単な加工は、自分でできた方がいいかもしれない。「人脈の形成」みたいなことも、他人に頼るわけにはいかない。飲み会のセッティングだったら得意な人に任せてもいいかもしれないけれど。


すべてのことが「外注」と「自前」の2種類に分けられるとしたら、その違いはなんだろう。これはもちろん人によって異なるのだから、自分にとっての答えを見つける必要がある。なんでもできる人間になりたい、あるいは、ひとつのことしかできないのはつまらない、といった考えがあれば、いろいろ手を出してしまえばいいのだろう。どんな自分だったらカッコイイと思えるのか、ということかもしれない。